風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

差別の系譜

何が差別なのか?現代の常識から言えば、人間の権利に対するひとつの挑発としてしか考えられない次の言葉から出発しよう。
「弱者や出来損ないどもは徹底的に没落すべきである。これがすなわち我々の人間愛の第一命題である。徹底的に没落するように援助することは、我々の義務でもある」(ニーチェ『反キリスト者』)
ニーチェアフォリズムを解釈するときはひとつひとつの言葉を徹底的に考え、どのようなことが言われているのかを明らかにしなければならない。そうしなければ、私はクロソウスキーが言うようにニーチェに私の言葉を語らせてしまうことになるだろう。
まず「弱者や出来損ない」という言葉からはじめよう。ニーチェの遠近法的視点からいえばこの言葉は決してアプリオリに理解できるというものではない。弱者といわれているものが経済的、あるいは政治的立場の低さと結びついているとは限らないのだ。ニーチェ自身の立場からでもこのような立場が「弱者や出来損ない」であるという「証明」があるというわけではない。重要なのはニーチェが「弱者や出来損ない」ということで何を批判しているのかということである。それは「万人の平等」という近代的理念である。というのは「万人の平等」という理念は弱者や出来損ないという概念を定義からして認めないからである。逆方向から言えば、近代的理念は「弱者や出来損ない」は病気という正常性の概念から外れたものとして扱うのである。
「徹底的に没落すべきである。」没落とはどういうことなのか。しかも徹底的に。ニーチェは没落という言葉を単純にマイナスの言葉として扱っていないということは彼の著書を少しでも読んだことのある人ならわかるだろう。ツァラトゥストラでさえ最初から没落するといわれている。問題は何に対して没落するのかということである。ニーチェの没落という言葉の使い方にはほとんど回心という言葉のニュアンスが感じ取られる。私は没落という言葉にはニヒリズムに向かうことという定義を与えたい。徹底的にという言葉があてはまるのはニーチェにとってこの言葉だけである。そこで前の文と合わせれば徹底的に没落すべきものは「万人の平等」であるということになる。ここまで解釈してきたことをまとめて言えばこうなる。「万人の平等はニヒリズムによって徹底的に克服されるべきだ」
さてこの言葉がニーチェにとって人間愛の第一命題であることはほとんど自明であるが、それでも誤解を減らすために解釈をしておこう。ニーチェにとって最も耐え難いものは何か。それは同情である。なぜ同情は耐え難いのか。それは同情が一般性の議論を持ち込むからなのである。普通我々は自分と相手の利益の一致にこそ人間同士の関係があるというように感じている。なぜなら、この一般性こそが資本主義における等価交換の原理を成り立たせているからである。商品の売買は互いが実践的相互関係において利益の一致を前提とすることで生じる。もし商品が(労働力も含めて)ひとつひとつかけがえのないもので値段がつけられないというのなら、等価交換は決して成りたたない。このことはジジェクの言うように反省的なレベルで行われるのでは決してない。この洞察まで踏み込んだ上で、やっと、なぜニーチェが万人の平等を徹底的に没落させることが人間愛の第一命題なのかが理解できる。ニーチェは決して万人の平等を軽視しているわけではない。このことはニーチェが万人の平等を前提として、まさにそのことを批判していることからでも明らかである。ニーチェはまさに万人の平等を破れ万人に呼びかけているのである。なぜなら「権利の不平等が問題なのでは決してない。権利の平等こそが復讐の権利をおしえる」からである。ここではほとんどマルクスの議論に近いことが言われている。しかしニーチェにおいては革命によって平等を確立するのではなく、万人の平等自体を廃棄することが問題になっている。レーニンの「平等とは階級の廃絶である」という言葉を思い出したくなるではないか。マルクス主義によってニーチェの言葉を解釈するのなら次のように言い換えてもいいだろう。「マルクス主義者がブルジョワを徹底的に没落させることは人間愛の第一命題である。徹底的に没落するように援助することは、我々の義務でもある」