風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

新しい実験動物の歴史4

ニーチェロマン主義批判は、この点に関して適切な洞察を与えている。つまり生成の態度にも二種類あり、ディオニュソス的な、過剰から、未来へのあふれる力が一方にあるとすれば、もう一方には、出来損ないの窮乏し零落している破壊への意志、破壊せずにはいられない故に破壊し続けるニヒリズム。存在そのものが癪に障って仕方がないということからの破壊というものがある。実験のための実験は、単に現実を破壊するためにのみ行なわれているのであり、これはどんなアナーキストよりも無政府主義であり、最高の破壊である。存在への意志も二通りの解釈が必要であり、一方に感謝と愛からの、神化の、永遠化の芸術があり、もう一方に、あらゆる救い、苦痛からの逃避、人生からの慰安、そして病気による特異体質を法則として人類に押し付けるようなロマン主義的ペシミズムがある。ニーチェが賞賛しているのは当然、デュオニソスのペシミズム、悲劇的というと、救済の、苦痛からの逃避へのロマン主義的ペシミズムと混同されかねないので、生成の破壊を洞察したことからの悲観主義、破壊を受け入れる(これは決して破壊されることを受け入れるということではない)ことからの悲観主義、実験動物に意味を与えることの悲観主義である。いっておくが実験動物が救われるというのは断固拒否しなくてはならない選択肢であり、それこそがファシズムであり、絶滅への意志である。私が言いたいのは人間を実験動物でなくするということではない。そうではなく、すべての人間が自分自身に対する実験動物になることを望んでいるのだ。民衆が民衆のままで不満が、権利が、ありとあらゆる貧困が解決されることはありえない。ニーチェが超人と末人の運動が開始されれば「中間の種」は破滅すると言っていたのはこのためだ。我々はむしろ中間の種が没落することに手を貸すべきであり、そのためにはなにをすればいいのか。戦争を反対することも賛成することもせずかつ日和見主義者でなく行動する方法。ニーチェ的な見地から見れば現在の問題はなにか。不断に問題問題問題問題……と提出し続けることが誤っているということ。ただ単に没落するか不条理なまでに論理的であるかということ。明るく滅びるのか、それとも、存在の絶滅を意志するのか。このことの帰結は我々は福島の事故に対してなしえることは何もない、ということではなく、福島の事故を利用して自分達の善意を、助けを、権利を、ありとあらゆる不幸に対する同情を、そのようにして享楽する我々の態度のすべてをやめるということにあるだろう。商業的な現実主義だけが正しいということでもない。それはあまりに人助けを、善意を僭称しすぎている。福島の人の意見を聞くということでもない。それは単なる意見の一つにすぎない。原発事故から引き出せる一切の利益を断念すること、たとえそれがマルクス主義的なものであろうともである。なるほど原発事故は文明の本質的欠陥であった。それは正しい。では文明に対してなにができるか。価値を創造すること?それはすっかり自己表現に変わられていないか?芸術?被災者を思ってか?何のために?西尾維新の「悲鳴伝」の空々空ように、その事故に対して徹底的に他人事で、なにも感じない無関心から出発するしかない。福島の事故を考えの外において思考すること、それを一つの余計なこととして思考すること。それはなんら必然でも、本質でも、取り返しのつかない不幸としても考えないこと。