風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

十八回目の爆発『隣人愛』2

「私の人間愛は、私が相手の身になって共感共苦している点にあるのではなく、相手に共感共苦しているそのことに私が耐え忍んでいる点にあるのである。……私の人間愛は休む間もない自己克服だといっていい。」(ニーチェ『この人を見よ』)
・なぜ奴隷や家畜などの自分にとって有利になるような種族を変えようとしなければならないのか。主人はこの事がわかっているので、彼らを元気付けることを語る。一方「救世主」は、彼らにとって苦痛と恐怖を与えるようなことを言うので、奴隷たちは自分の本性を変えずに地位を変えようとして革命の信仰を手に入れる。
・弱者や出来損ないたちを徹底的に没落するように援助することは、まだあまりにも同情的である。彼らは没落すべきなのではなく、死滅するのであり、余計な労力を使うべきではない。
・我々はもはや隣人を他者に見いだそうともそれを変えたいとも思わない。いやこの言い方でも他者が残っている「私」こそが隣人である。強盗と隣人の一致。したがって神への愛と隣人への愛は一致する。強者も弱者もない。隣人も異邦人もない。無関心という言葉が理解できないのでなくてはならない。「神の国は汝らのただ中にあるなり」
・新聞に書かれているような問題はどうでもいいことである。人は自分のことだけを考えるべきである。そしてこのことこそ新聞に欠けているものである。過ちは他人の不幸を助けたいということにある。まず自分を助けるべきである。人は自分の不幸を隣人に症候の形で表現する。
・自分の問題が他者を誘惑するかどうかはまったく二次的なことである。私は自分のことを世間の判断に委ねたいとは思わない。
・自分の十字架を背負わずに人を助けようとする人こそがパリサイ人である。また自分の隣人を貨幣の形で代用してしまうことも忌むべきことである。
・人に助けてもらいたいと考えることは怠惰である。奴隷は自分の誇りを密かに誇りにしている。そこにこそ彼らの罪がある。誰にも助けてもらえないから彼らは死滅する。
・人を助けることが自身の十字架となっているものだけが人を助けるべきである。人はイエスのようになりたいと考えてはならない。それはイエスの教えに反している。
・悩める者、苦しんでいる者、不幸な者を救おうとしてはならない。彼らの道徳的ポーズ、身振りの憤激、集団の結成を気のすむまでやらせるべきである。彼らはどこまでも奴隷であることを願っているのであり、それが良い奴隷であろうと我々に何の関係があろう?
・奴隷は世界は不条理であってはならないと言う。我々はその反対を望んでいる。さらに言えば、我々は奴隷が世界を一層不条理に見せてくれることを望んでいる。世界の不条理に怒るのは、「私が不条理でありたい」と考える第一歩である。
・結局のところ人は何を望んでいるのか?大衆の困窮の解消か?しかしなぜ大衆を助けなくてはならないのか。反乱が起こり、生産のための労働が行われなくなるからか。しかしまた、自分の優位を獲得するためというのも軽蔑すべきことのように思える。もちろん理念のためなど論外である。
・偉人は人々を誤解させてきた。人々を助けることが万人の義務であるかのように奴隷たちを元気付けたからである。しかし偉人は古典的に考えるべきである。それは驚嘆すべき生なのである。