風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

「すべての反ユダヤ主義者たちは抹殺されました」

真理への意志―――のために。第一命題。容易な考え方は、難しい考え方を打ち負かす―――ドグマと化すことによって。真理ノ印象ハ単純ナリ―――私は断定する、すなわち明瞭さが何ほどかの真理を証示すると思うのは、幼稚きわまることだ……。第二命題。存在についての、事物についての、純粋に確固たる統一についての教えは、生成についての、発展についての教えよりも百倍も容易である。第三命題。論理は容易化として考えられたのである。表現手段としてだ、―――真理としてではない、………後になってそれは真理として作用するようになった……」ニーチェ『遺稿 1888年7月‐8月 18[一三]』
「(…)われわれは哲学を危険なものにする。われわれはその概念を変える。われわれは哲学を、生命の危険を伴う概念として教える。われわれはどうしたら哲学にもっとましな協力ができるだろう?―――概念というものは、それが人類にとって高くつくだけ、その価値がある。誰もが「神」とか「祖国」とか「自由」とかいった概念に大がかりのいけにえを捧げることを疑ったら、歴史とはこの種の犠牲の周りに立ち込める蒙気でしかないと考えるようになったら、どうだろう―――、「哲学」という概念が、「神」「祖国」「自由」といったポピュラーな価値に対して優位を占めるとすれば、それは何によって保証されるのか、ほかならぬより多くの出血を、これまでにないような一大供犠を要求するということではないか?………一切の価値の転換。それは高価につくはずだ、私は約束しておく―――」(ニーチェ『遺稿 1888年10月 23[三]』)
反ユダヤ主義者たちの享楽と同一化することで、邪悪なユダヤというもの自体になること。ユダヤ人という概念に神や祖国や自由平等の障害などを投影している反ユダヤ主義者たちを滅ぼすこと我々の享楽を伴った残酷さは反ユダヤ主義者、人種差別主義者を滅ぼすそのやり方に表現される。すなわちスターリン主義よりもたちの悪い精神分析を政治的に実践するということ。超人と末人を「自由意志」に基づいて選別すること。彼らには自身が存在しないということを明るい気持ちで納得させること。人種差別主義者に対する公然の戦争。我々の隣人愛とは彼らの没落を援助することである。神を、国家を、自由を信じているものたちを徹底的に没落させること。「戦争は平和である」を転倒し「平和とは戦争である」にすること。生にいかなる自明性もないこと、「誤った生存」を受け入れること。生の過剰さ、邪悪な祈りではなく、祈りの邪悪さを理解すること。誠実さよりも虚偽を、数ではなく質を。人類をゴミの山と見做すこと…。問題はいかに我々は享楽するかということ、新しい野蛮な享楽を古い享楽に対立させること、それこそが「正義」であるということ。………
ニーチェ教授の「最後ノ言葉」が失語症に変ずるのを見れば、医者たちは自分達の現実原則が確認されたとおもうだろう。つまりニーチェは境界を越えたのだ。彼は混乱した状態において、もはや満足に語ることはない。彼は叫ぶか黙るかのどちらかだというわけだ。」(ピエール・クロソウスキーニーチェと悪循環』)
「「沈黙は金なり」と主張する格言は、行為の領域においてはいかようにも解釈可能な結果をもたらす。この格言には、「行為が純粋でなければならないのなら、沈黙も純粋にならなければならない」を対置しなくてはならない。」(ピエール・クロソウスキー『わが隣人サド』)