風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

差別の系譜2

しかし問題はここから始まる。なぜなら万人の平等の徹底的な廃棄は万人の非人間化としてスターリン主義がまさに実行したことであり、万人の平等の信仰をナチはムーぜルマンという形象として破壊したからである。ニーチェの言説はこれらの事柄の可能性を少なくとも示唆していた。この点において両者は何が問題なのかを誤らなかった。よって最低でも「徹底的に没落するように援助することは、われわれの義務でもある」という言葉にはスターリン主義の「客観的な敵」という形式とナチのアーレントが記述したアイヒマンの「義務に基づいて行動した」という二つの反論が出されなければならない。特にナチについてはアーレントによればだがユダヤ人に対する「生まれながらの不平等」を法律化しようとしたことは決定的でであるように思われる。生まれながらの不平等を単純に表現する言葉は「種族」である。しかしナチの反ユダヤ主義には万人の平等を破壊するのに、ユダヤ人という享楽を創らざるを得なかった。確かにジジェクの言うとおり反ユダヤ主義者の中にユダヤ人の形象があるということは正しい。しかし遺伝子工学はそれを実際に実現できる可能性があるという点で、ナチの反ユダヤ主義は新しい一つの現実性を獲得する。一方、スターリン主義的な人間の非人間化は、万人の平等に対する二つの反論について科学的な対応をしている。二つの反論とは、能力の不平等と、共同体の忠誠である。スターリン主義的な非人間化とは党の機能についてのことである。ブレヒトの「個人の目は二つ、党の目は千」という言葉を想起してもいいだろう。つまり、インターネットにおける人間の画一主義というのがそれである。ネットの主体は万人の平等の直接的な実現なのだが、このことは監視と監獄のネットワークによって成立している。究極的には、ネットの共同体ということ自体が人間の非人間化の一歩だったのだ。もちろんここで、この二つを本当の意味で補っているのは資本主義的な生産関係であるということを言うのは容易い。しかし現在の状況が示しているのはそれの失敗である。人種差別主義の勃興と万人の平等の権利が再び復活したのはこの資本主義的な等価交換の主体としての万人の平等の症候である。人種差別主義によって、能力の不平等は無視され、平等の権利によって共同体の忠誠は無視される。この二つの万人の平等に対する反論は享楽をお互いに供給しあっている。では問題をもとに戻そう。ニーチェの言説はこのようにナチとスターリン主義の行為の可能性を含んでいる。しかし私がここで言いたいのは、その可能性を完全に認めたうえでこの言説に執着して、万人の平等に対抗する形象を新しく創り上げることである。ナチ的な言説にもスターリン主義的な言説にも関係ない義務を万人の平等に対して提示すること。ニーチェの言説について最後に言わなければならないことは、これはニーチェ定言命法であるということである。つまりこのことが万人に言われなくてはならない。繰り返すが、重要なのはこれをルソー的な一般性選択にしないことである。「私にとっての利益を私に与え私にとっての不利益を他者に与える」という形式でなくてはならない。この形式は「万人の平等」というカント的な他者に対して措かれている。この主体は、実践的な相互関係のうちでは自身の個別性をあくまでウィトゲンシュタイン独我論的形式で主張するが、個人的な反省レベルでは万人の平等を反省するのである。(永井均ウィトゲンシュタインの誤謬』参照)万人の平等は他者として存在するが実践的な相互関係のうちでは存在しないということ。この形式によってのみ、享楽の悪循環を抜ける可能性が生成されるのだ。