風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

永井均『倫理とは何か』1

(…)プラトンの問題提起が正当である理由は、こういうことだ。「わたしはなぜ私自身にとって善いこと(=私自身の幸福や利益)を実現しようとし、私自身によって悪いこと(=私自身の幸福や不幸)を避けようとすべきなのか」という問いは、的外れな問いだろう。(…)これに対して、「私は他人にとって善いこと(=他人の幸福あるいは利益)を実現しようとすべきで、他人にとって悪いこと(他人の不幸あるいは損害)を避けようとすべきなのか」という問いは、解答を要求する問いだ。プラトンが哲学的に破格に偉大なのは、これを解答を要求する問いだとみなしたことにあるんだ。これは大変な哲学的洞察というべきだ。(…)
だれでもすぐに思いつく解答はこうだろう。他人にとって善いこと(=他人の利益)を実現しようとし、他人にとって悪いこと(=他人の損害)を避けようとすることによって、結局は、自分自身にとって善いこと(=利益)が実現され、自分にとって悪いこと(損害)が避けられることになる。そしてそうであるかぎりにおいて、他人の利害を考慮に入れることは、思慮のある行動、合理的な行動である、というものだ。(…)
さてそうであるかぎりにおいて他人の利害を考慮に入れることが合理的なのだとすると、そうでないとき、たとえば、自分の利益のために他人に対して悪いことをやっても、誰がやったか絶対にばれないことがわかっている場合なんかは、自分の損害にならないのだから、それを避けるべき理由はないことになる。むしろ積極的にそうすべきだ、ということになるね。

(…)社会契約の場合には、つまり、こういうことになる。だれもがある約束を守る社会とだれもそれを守らない社会を対比すると、だれにとっても(自分自身にとって)前者の方が有利だ。しかしどちらにしても、自分がその約束を守る場合と守らない場合を対比すると、だれにとっても自分はそれを守らない方が(自分自身にとって)有利だ。さて、こういう状況で、前者の社会は実現可能か、という問題だ。

(…)ホッブズの真の課題は、刹那的で深謀遠慮に乏しく非理性的に利己的なだけの人間を、狡知にたけた一貫性のある理性的に利己的な人間に引き上げることにあったんだ。だからさっきのような仕方で問題が立てられて、それこそが問題だと意識されるとき、真の問題はすでに暗黙のうちに解決されているんだ。社会契約のポイントは、本当は、契約を守るか破るかなんてことではない。計算高く、守るつもりのない約束をするやつがいたって、一向にかまわない。それがほかならぬ約束として理解され、まさに約束したふりをして人をだませるようになれば、しめたものなのさ。そういうことが有効になされる社会では、社会契約はもう成功しているんだよ。もう成功した視点にしか立てないんだ。