風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

不正な富の友としてのキャラクターカード4

「人間は、どこかにやってくるとすぐに、そこに監獄と売春宿を、つまり欲望が本当にあるような場所を造ります。そして何かを、よりよい世界、未来の世界を待ち望むのです。人間はそこにいて、夜を明かし、革命を待ち望みます。しかしとりわけ、人間がどこかにやって来るとすぐに、あらゆる仕事から退屈がにじみでるということが、この上なく重要になります。一つの仕事が真面目なものになり始めるのは、それを構成しているもの、つまり一般には規則性ですが、これが完全に退屈なものになったときにほかなりません。」(ジャック・ラカン『無意識の形成物』)
一旦あらゆるキャラクターの普遍性の可能性が確立されるとカードバトルはただ退屈から逃れるためのものに成り下がる。キャラクターを金銭に換える可能性と享楽だけが追い求められ、人格の実現という観点からはどんな希望も奪い取られる。普遍性となる可能性が女性が子供を肉体的に生むことを不可能にすること、つまり子宮を取り出すことであるような記述が導入され、永遠の少女であることを義務付けられる。ここにはレズピアン同士の恋愛しか残りえなくなってしまう。男性は狂った少女に夢中であり、現実の女性を流通以外の観点で見ることはなくなる。もし男性が女性を欲望するとすれば、「嵐が丘」のヒースクリフのような方法でしか不可能だろう。ここで話を最初に戻さなくてはならない。もはや人格の実現を大量生産のカードで代理=表象できるとは考えられないが、自身をたとえ不純でも貨幣として表現するためには監獄としてのカードの形式と売春婦としてのキャラクターの記号は必要不可欠である。そこで実現するものとしての人格記号をつねに新しく価値転換していくものとして、従来の価値をつねに乗り越えるものとして考えることで、人格記号の普遍的可能性を可能性としての普遍的人格記号に置き換えることができる。享楽の形式と同一化している以上、享楽が入り込む余地はなく貨幣としての媒介機能を実現できる。さらにこの場合、女性を欲望の対象として考える必要はなくなる。見かけとしての普遍的可能性を拒否しているからだ。そこで女性に対するあらゆる処置は意味を失う。隣人愛のブルジョワ的形式は克服されるのだ。自身の人格を絶えず破壊し創造することで女性の愛し方を不断に変えるということ、そのためにあらゆる断片的なメディア記述が必要になる。愛する存在しない無数の女性があるのではなく、ひとりの女性に対する無数の愛し方があるのだ。