風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

十九回目の爆発『余剰の情報生命体』

ますます巨大化し制約する力を強めている経済的諸規範に対して逆の運動を起こすことの必要性。それは人間の過剰な力を排除することだと私は言いたい。精神的・肉体的満足と条件反射によって規範化された人類と労働者を彼らの生産した道具とともに思うがままに利用できるような人間類型を発展させること。排除の選別基準は経済的諸規範が教えてくれる。我々はそれに抵抗するのではなく、さらに排除されるように努力しなければならない。抵抗することは経済的諸規範にとっても我々にとっても高くつく。それに対して必ずしや科学者などが評価情報によって介入してくるはずなので、その評価情報によって自分が表現されていないと訴えるのではなく、過剰なまでにそれによって表現すること。科学者たちの素朴さに憤慨してはならない。彼らは表現手段を提供してくれる。そして科学者自身がこの評価情報によって凡庸であると解釈されざるをえないだろう。そしてその効率性によって判断を奪われ没落していくだろう。情報生命体の定義付け。ある人間の価値は表示される情報によってのみ理解される。たとえそれが理解不可能になったとしてもである。そこから人格や生命の錯覚、つまり余剰価値が生まれる。我々はまず自身の身体の情動を言葉によって記号に置き換え、その後、その記号によって身体を構成し直さなくてはならない。つまり作品に生命(の記号)を宿すこと。構成された身体は、情動の解釈の基体となった身体よりも価値が高くなければならない。人間の人格は外部との関係によってのみ規定されるという観点が重要である。もちろん私が言いたいのはその規定された観点から排除されるようにするということなのだが。経済体制の内部に入ることは問題とならない。教育はいかに経済的規範から排除されるかの戦略によって行われる。抑圧に対しては抵抗することではなく、むしろ経済的規範に過剰な利益を与えるようにしなくてはならない。ただし余剰の存在が利用する者たちを指導するなどと考えないこと。価値はこちらにあるのだから規範を提供しようなどとは考えてはならない。模倣するに任せなくてはならない。利益を求める者たちは、恐らくその事によって必然的に主人と奴隷の基準を生産し再び剰余の存在が成立する条件を整えるのであろう。だが所詮利益は権力であって価値ではないのだ。