風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ゲームの法と決め台詞的能力バトル

いかに搾取すべきか?我々はあまりにも自由とか平等を求め過ぎたせいでこの問いを出すことを忘れていたのだ。我々がゲームの法を提案するのは各人が意識的に搾取を行う理想的な方法は何かという目的によってである。ここからゲームの法とは「奴隷と主人が対等な関係でコミュニケーションをとるための手段」であることがわかる。問題のすべては利益とは誤解によって生まれるということにほかならない。人間同士の理解が、完全であるか強者と弱者のように誤解の余地がない場合はコミュニケーションは成立しない。したがって我々はある程度一般財の要求が満たされ各人が生活必需品以上の欲望を持っている状況を想定している。奴隷が最低限自身の労働によって生産を行えるのでなければ搾取はできないからだ。つまり出発点は資本主義経済下における労働者(本来家畜という言い方が適切だが労働者に敬意を表して我々はあくまで奴隷という言葉を使用するつもりだ)である。搾取の基本的な方法は奴隷の労働力を厳密に理解し、それを再生産可能な最低限のラインで使用することにある。これは必ずしも数学的な評価方法である必要はない。現在ではすでに自明なことかと思うが、あくまで評価は人間性の観点から行った方が対等な関係で使用し続けるのに効率的だということである。不満はそれ自体搾取に反抗する欲望を生み出す。この事は搾取における労働力の形態が外在性から内在性に変化していくということである。もし主人の側がこの事に対応できないのならば、彼は搾取の資本と技術を失うことになるだろう。内在性における所有形態は潜在性であり、それは評価における測定を通じてどれだけの創造力を個々の才能によって技術の利便性に昇華することができるかにかかっている。そのためには人材の高度な訓練と目的意識が必要不可欠であり、それは潜在的な競争相手によって維持されなくてはならない。この場合、主人としての資本家は潜在性の担保となる「若さ」を持っている必要がある。この事が通俗的に理解されるかあるいは若さの源泉が失われつつある場合は単に年齢的な若さへと担保の保証が変化してしまい、最終的には生まれてこないことが担保の役割を果たすことになってしまう。人間はもはや財を価値あるものと見なすことができないのであり、生存だけが目的の廃棄物に成り果てる。人類が軽蔑すべきものであるということは、流通は言葉以外のもので行うことはできないということである。だから言語ゲーム。この事が一見自明であるように見えるのは、我々が流通の参照基準に人間の生存を直接置いてはいないからである。搾取がもはや行われないのは世界自体が搾取の対象になったからであり、価値がない人間は端的に捨てられることになる。人間は過剰供給であるというわけだ。教育の貸し出しは控えられ、人間の質を高める努力が行われることになるだろう。ここでやっと「超人」の欲望が現れる。というのは人間を越えるのでなければ、あるいは越えようとするのでなければ人間に価値はないからだ。だが注意すべきなのは超人の形態は人間に新しい能力を付け加えるようなものではなくて、人間性を解体するようなものでなくてはならないということだ。だから「非人間」と呼んだ方が適切なのだが、問題は人間に過剰を取り戻させることにあるのだからイメージ的にはこちらの方が合っているのだ。