風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

天才の発明2

ここで私はどうしてももう一人の偉大なる狂人、シュレーバー博士の言葉に耳を傾けたいと思わざるえない。フロイトの分析を聞いてみよう。「シュレーバー博士に再び自由を回復させたその解除宣言の中に、彼の妄想体系の内容がほんの数行の記述の中に集約されている。―――「彼は、世界を救済し、失われた幸福を再びこの世にもたらすことを自分の使命だと確信している。しかしそれが実現されるためには、彼があらかじめ男性から女性に性を転換させておかなければならない、と考えている。」(…)彼の救済事業の最も本質的な点は、何よりもまず、彼自身の女性への転換が行なわれなければならないという点である。要点は、彼が女性になりたいということではなく、むしろその転換が世界秩序に基づく〈必然(ねばならぬ)〉によるものであって、たとえ彼自身から見れば今の栄誉ある男性的地位にとどまった方が好ましいことだとしても、どうしてもその〈必然〉から脱れることはできない。」(フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析考察』)というわけで、いまや「魔法少女」がいかに発明された天才かということが理解される。事故(スキャンダル)起こす才能(へいき)としての魔法少女。世界を滅す危機に対しては魔法少女が動員されざるをえない。しかしなぜ女性なのか?それは男性では神に性的享楽を与えることができないからだ。魔王が女になったのも無理はない。これに対抗するためにはニーチェが『悦ばしき知識』の序文で書いている少女の言葉に耳を傾けるべきであろう。「いたるところ神様が見ているってほんとなの?でもそれってひどいと思うわ」これは真理の探求を譲歩すべきだということではない。そうではなく、真理の羞恥心を尊重しようということなのだ。魔法少女の羞恥心を尊重しよう。というのも真理は女なのだから。必要なのは偽善的でない、つまりいきいきとした礼儀を再発明することである。恥ずかしさを他人に与えることを軽蔑すること、恥ずかしい思いをさせないこと、そして自分自身に羞恥を覚えないこと。私はルノワールの描いた裸婦のことを考える。またはラファエロの絵画を。こういうものは可能だろうか?ぶぅぶぅと悲劇的でない官能や、悦ばしい礼節というものは可能だろうか?しかしいったいなぜこれが「魔法少女」に対抗することになるのだろうか?それは科学の過剰露出に対抗するということだからだ。科学によって発達したコミュニケーション技術に対抗する手段の発明、発明されすぎた天才の破壊と、天才概念の再発明。しかしいったい天才とはなにか?この問いにニーチェクロソウスキーの考えで答えよう。それは消費に意味を与える能力である、と。生命を、科学上の成果を、ありとあらゆる貴重な文化を消費し、破壊し、滅ぼせるような意味を与えること。だがここでも対立があるのだ。それはあらゆるものに罪があるという考え方と、生成の無垢という考え方との対立である。