風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

十八回目の爆発『隣人愛』

「愛にたいして効き目があるのは、大抵の場合依然としてあったあの古い荒療治―――愛し返すことである。」(ニーチェ『遺された断想 1883年夏』)
・隣人愛とは、ある理念が他者と出会った時の症候である。具体的にはアウシュビッツ、原爆、アブグレイブ、人民の敵、異端審問などがそうである。
・人間を大量に虐殺することはどんな観点から断罪されているのか。人道からか。むしろ人間が大量に虐殺されると、その理念が間違っていたことが「証明」されるのである。人間を「殺す」必要が生じるのは、人間の身体に何らかの価値があると感じられる場合だけである。身体は労働力の抵当になるのだが、人間の身体が増えすぎると人間を弾圧して殺す価値すらなくなり、廃棄することしかできなくなるとともに身体の価値がインフレして無になってしまう。
・すべての人間が殺される価値があるというのは(つまり禁止される価値があるというのは)偏見である。もし人間に殺される価値すらないのなら、人間は自己蔑視から死滅し始める。
・価値ある人間は身体的な生命を惜しまない以上、すぐに数が少なくなる。人間の浪費の価値。
・人間の身体に最高の価値を置くのなら、それは身体の破壊ではなく仏教に行き着くはずである。快楽主義の悪徳はどちらかと言えば最後の足掻きのようなものである。
・この世で最高の邪悪さを持つのは隣人愛であるということ。隣人に対する恐怖は何に基づくのか。自分が厄介ごとに巻き込まれるのではないかということへの心配。だが実際には、私はを与えればそれでいいのではないか?
・無すら与えることができないのなら、私の価値など無だ。だが無すら受け取ることは屈辱ではないのか。
・隣人はまず強盗によって襲われ半殺しにされる必要があるのではないか?今日の資本主義とボランティアの関係。
・多くの人間を救うことは正しいことなのか。それとも利益になることなのか。前者なら救いは迷信である。後者なら救いは価値生産の行為だということになる。いかに救いを利益の外見を持たないように見せるのか。
・隣人愛は脅迫とどう違うのか。当然より悪いのは隣人愛の方でなくてはならない。なぜなら脅迫は金を払えばいいだけだが、隣人愛は愛がないと地獄に落とされるからである。
ニーチェの意見では「自分の友だけを助けよ」となる。つまり強盗に襲われた人を無視した人たちへの非難として「善きサマリア人」を読んではならないということである。当然強盗に対しても非難を向けてはならない。
・隣人が対等な関係であるなどということはまったくありえない。隣人は何一つ具体的には言われていない。イメージの問題であることは確実である。
・隣人愛はなぜ不可能だと思われるのか。逆に考えた方がはっきりする。誰も隣人に助けられるような状況に陥りたいとは思わないし、助けを受けることに同意したいとも思わない。いったいどんな返礼をすれば与えられたものを償えるのか分からないからである。むしろ無視した方が人間的である。
・隣人愛は同情とは何の関係もない。これは人の誇りをへし折り、相手を苦しめることを目的としている。つまりニーチェの言う同情の嫌悪を経由した上で、それを無視して相手を助けようとするのだ。これは非人間的である。
・隣人愛への恐怖とは「下手に助ければ、かえって相手の状態を悪化させるかもしれない」ということである。しかしイエスが言いたいことは、まさに隣人の状態を自分の責任において悪化させろということである。しかもそれは生の終わりを越えて相手を苦しめるということである。
・サドの方法では相手を地獄に落とすことなど到底できない。ましてや永遠の拷問など!
・隣人愛の報酬が憎悪と嫌悪であることはまったく正当である。なぜなら相手は利益のことなどまったく考えずただ苦しめるためにのみ人を助けるのだから。賞賛など問題外である。隣人愛はいかにアイヒマンの態度と似ていることか!だが隣人愛はどんな権威も持たず相手を苦しめようとするのである。少しでも権威があれば享楽になってしまう。
・「信頼していた人を裏切ってしまった!」これこそ地獄というものであろう。