風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

十二回目の爆発『欲望の排除』

「世界の中のどこに刑而上学的な主体が認められうるのか。君は、これを眼と視野の関係と同じ事情だと言う。だが、君は現実に眼を見ることはない。そして、視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されない。」(ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』)
・出発点は、見ることの正しさは何によって支えられ、求められているのかという問いからである。もし見ることが犯すことであるのなら、いかにして見ることなく見ることができるのか。ある特定の人間を繰り返し殺し犯し壊すことの評価を見ることができるシミュレーションの可視化は、兵站における第一級の重要性を持っている。欲望を補給するという役割だ。だが欲望は目的の達成が不可能であることに気づくと、目的から享楽を確保するようになり始める。享楽と否定は等しい。享楽を無力化するためには目的の欲望を排除しなければならない。
・見ることができる対象は存在しない。記憶できるカテゴリーは存在しない。時空間の流れの記述は存在しない。思考の表象の記号は存在しない。見たい、覚えたい、自由になりたい、考えたいという欲望の全てが幻想なのだ。同時に見たくない、忘れたい、真面目にしたい、考えたくないというのはである。さらに破壊できる道具は存在しない。破壊できるのはゴミだけである。戦うことができる敵は存在しない。戦うことで敵対できるのは仲間だけである。敵を滅ぼしたいのなら、全てを尽くして愛すればいい。憎悪は敵を再生産する。敵を見ることができないのなら戦いは起こり得ない。知ることができる知識は存在しない。知識は使用するものだからである。知識のための知識の欲望は自慰の享楽を引き起こし、専門家による全面的な自慰体制構築の一歩となる。交換できる市場は存在しない。売買できるのは神だけだからである。評価できるネットワークは存在しない。アルゴリズムトートロジーしか語らない。コンピュータの操作上の矛盾は享楽に利用されるにすぎない。意味のある謎は存在しない。謎とは意味が欠けていることそのものである。何であれ存在しないものから手にいれることができるのは利益と権力だけであり、暴力を税として扱うことはできない。つまり利益と権力からは暴力が帰結する。計算が可能なのは計算の形式が受け入れられ始めた頃にしか機能しない。税の基準は本質的に怒られない程度に多くという基準しか存在しない。しかし税の計量方法を受け入れている限り税は払わなくてはならない。それは欲望の所有の代価である。