風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

十三回目の爆発『欲動の法/愛/永劫回帰』

「英雄の周囲では一切が悲劇となり、半神の周囲では一切がサテュロス劇となる。そして神の周囲では一切は―――どうなるか?おそらくは「世界」にだろうか?―――」(ニーチェ『善悪の彼岸 一五〇』)
売ることのできる商品は存在しない。商品は買うことしかできない。売りうるのは愛だけである。買うことができる貨幣は存在しない。貨幣は与えることしかできない。理解できるコミュニケーションは存在しない。理解できるのは記号だけである。人類である人間は存在しない。人類であるのは超人か非人間だけである。潜在的である可能性は存在しない。可能性とは実現されている事実のことである。欲望を排除していくのは享楽を排除したまま欲望を維持するための形態である欲動の形態に移行するためだ。法の禁止の外在化から法の排除の内在化へ。欲動は欲望が法になっており享楽の方が禁止されている。このことから、欲動と欲望の差異は欲望と享楽のどちらが禁止されている度合いが多いかということにしかないことがわかる。重要なのは法が生産されるためには、享楽の禁止の形態が必要であるということである。ではこの欲望と欲動の悪循環そのものの禁止の法はありうるだろうか。愛がそれだ。愛は欲望を禁止する。逆に永劫回帰は享楽の禁止に基づく。だからこそ運命愛が問題となるのだ。だがいかにしてそれは伝達されうるのか。その事に対する記号の表現がないということ自体の禁止の法がどうしてありえようか。解釈は解釈する側にあるのであって、自分自身にはないという解釈。その解釈に対応するような道具を生産するのだとしても、その道具の解釈をするのは道具自身だとでもいうのだろうか。ここから再び悪循環が始まり、ひとつの存在論的過ちが欲望となって禁止の法を打ち立てるだろう。そこで人はこう呟くのだ。道具がしゃべるわけがないと。