風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

四回目の爆発『知識人の商品形態』

知識人の輸出入や人道主義者の世界的な商品交換の形式はどうなっているのだろうか。そのためには知識人の商品形態を分析してみることが必要である。知識人が商品として消費されるためには、彼らが自身の知識から特定の道徳規範を生産し、その道徳から特定の労働者たちを生産できることが必要である。ところで大抵の知識人―――つまり教養俗物のことだが―――は無知な人間や若者向けに信者を呼び集めるか、それとも犬のようにその道徳を使って噛み付きまくるかのどちらかでしかなく、あとは世論をしゃべっているだけである。もちろんこういう贋金づくりは元の良質な知識を普及するためには必要不可欠なのだが、そういうものに啓蒙された私たちとしては、心底関わりたくないものである。知識人に必要なのは毎日自分にとって必要なことをひたすら考え続けることであり、そのような人だけが一つの方法、つまり新しい商品形態を生産することができるのである。ところで知識人が軽蔑する大衆とはまさにこれらの悪貨で養われた人々以外の何者でもなく、そういう大衆にはその知識人の方法の誤謬がはっきりと現れるのである。知識人が大衆を持ち上げるにせよ軽蔑するにせよ、それは自分の作った知識に基づいて判断しているのであり、あらゆる左翼小児病はここから生じる。たとえば「いろんな人の意見がある」などの判断は、見事なまでに精神の荒廃、つまり自分の意見など何も持っていないというから生じるのであり、「新しいことをやってみるべきだ」と言う決して失敗しない人たちにも同じことが言える。知識人は新しい考えを求めているが、新しい考えとはまさに彼らの現在の道徳形式を破壊し、彼らの地位を破滅させるものであるということに思い至れば、彼らが判を押したように同じことしか言わないのも納得できるというものである。凡庸さの反対は多様性でもなく個性でもなく勇気であるということ。知識の不正な利用とは経済学者が発明したものであって、知識の不正な利用は享楽になるか神聖さになるかのどちらかである。したがってどれほどプロバガンダが有効かということが分かる。自分だけの状況に応じた知識がでてくるはずなのに、それを世間並みの言葉で置き換えることに全ての腐敗がある。とはいえ言葉を学習するためにはまずプロバガンダを勉強しなければならないのであるが。「創造的な知性」とか「無限の感覚」とは一つの誤解であって、私はそういうものにこそ「無限の陳腐さ」という評価を下したいと思う。ところで「公共性」とは利己主義者の「道徳的神」であって、利己主義者が自身の欲望を維持する為に絶対に必要なものなのだ。勘違いしてはならない。彼らは自身の豊かさを正当化するためには、貧しいものに福祉や慈善を与えるのでなくてはならず、そうでないのなら彼らは利己主義者ではなく自分の地位や特権に不合理に執着しているのである。