風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

自慰の商品価値

「けだしわれわれは皆、つぎのような判断においては一致しているのでありますから。すなわち、自慰というテーマは疑いもなく無尽のものを蔵しているという判断において。」(フロイト『自慰論』)
自慰に商品価値があるというのはどのような場合であろうか。むしろ自慰は商品価値になりうるのか?ダリは「大自慰者」を描いたわけだが、現代ではむしろそれはありきたりに思える。「変ゼミ」にしろ「ぱらいぞ」にしろその他あらゆる同人誌や映像においてそれは氾濫(反乱)している。パフォーマンスアートの一種にすらなっている。最初から考えよう。そもそも自慰とは性的満足を得るための一手段なわけだが、これが嫌悪や軽蔑をもって語られるのはなぜなのか?フロイトカール・クラウスの文章を引いているように「実際の性交は自慰の不十分な代用物に過ぎない」とまで語られているにもかかわらずである。自慰を恋愛や異性による実際の性交の準備と考えるような場合は、自慰は恋愛や性交の可能性を表現しているにすぎないのだから、それが嫌悪される理由は何もないように思える。それが一時しのぎの窮策であったとしてもである。逆に完全に自慰だけで満足をするような場合を考えたほうが事態は明白であるように思われる。単に快楽だけを問題にするのなら何も非難すべきところはないはずだ。だから、快楽以外のものが問題になっているのだ。性交を子供を作る手段として考えるという場合は(すでにこの時点でセクシュアリティの問題を無視しているにすぎないが)、自慰が精力を減少させることによって子供を作れなくなることを危惧しているということになるだろう。この点でフロイトは「民衆全体の関心は、男たちが完全な性的能力をそなえて性交にのぞむということにあることがわかる。」(『神経症の原因としての性』)と言っている。これはカント的な意味で考えなくてはならない。つまり自慰が嫌悪や軽蔑やとりわけ不安をもって語られるのは、男が完全な性的能力を持つのでなくてはならないという理想があるときだけであり、まさにそのような人間はフロイトがいつも言っているように「全能の父」に基づいているということ、だがもちろんそのような人間は存在しない。つまりこの「全能の父」はカントの道徳的神に当てはまり、そのために人間の精力は「無限」でなくてはならないことになるのだ。したがって「民衆全体の関心」の記述が、社会関係についての、もっと正確に言うなら社会的流通についての欲望に対応していることが分かる。すべての男達が自慰しかしなくなったら社会は滅びるだろうということだ。だが科学はこれにひとつの解決を与えたということかもしれない。もし子供を作るのに女性が、つまり直接的な性交が必要ないなら、当然性交はひとつの性愛的な表現の手段、あるいは趣味になるのであって、自慰もこの趣味の一つに数えられるようになるということではないのか。つまり自慰にも商品としての流通可能性が出て来るということなのか。むしろこういうべきなのではないのか。人間と性愛の関係は生存の手段から完全に切り離されてしまったので、純粋な昇華の可能性があらわれるようになったということ。自慰はむしろひとつの余計な原理であって、人間が子供を産むことが必然的でないのなら、性欲を手段として利用することだけが問題になったということではないのかということである。