風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

パンドラの匣

一見すると丁寧な文章というのはなにか謙遜を気どっているかもしれないが、その中には実にたくさんの独断と不遜と高慢というものがある。まず自身を実験材料として提供するということからして、悪意に満ちている。いったいこいつには自身を実験材料としての価値などあるのだろうか?まったくもって挑発以外のなにものでもなく、これが狂気に対する戦略であることは明らかだ。次に書かれた文章をよく読んでみよう。どうやら独裁を手放す気はこれっぽっちもないそうだ。しかもそこに暴虐な犯罪を起こすとの意志すら感じられる。文化的隷属のことは自明だと感じているらしい。それに憎悪を動員するだって!きみこそ憎悪ぷんぷんではないか。しかしどうやらマルクス主義とファシズムの批判を行ないたいらしい。そんなもんどちらもいやに決まってるじゃねえか。いまさらそんなことで悩ませないで欲しい。人種差別主義?そう、それは問題だ。しかし時間がたてば熱狂が収まるのではないかね?ニーチェなんてどうでもいいではないか。この事態をもっと悪くなどさせないで欲しい。君がそんなことをできると思っているほど誇大妄想狂ならそれも結構だが。もっと悪いもの?マルクス主義とファシズムの合体したものでも作ればいいのではないかね?というわけで実際にやってみた。共産主義天皇というものならどうだろうか。これこそ日本の伝統にかない、左右両方から確実に文句を受け、そしてなおかつリベラルをがっかりさせるなにものかだ。左翼の権利要求は少しも満たされず、右翼の戦争賛成は少しも満たされず、リベラルな自由放任も少し満たされない。代わりに天皇制の新しい利用法と、度外れな熱狂と、技術への気持ち悪い讃歌がある。だが良く考えてみれば、これは植民地解放運動においての常道のようなものであり、アジア国家としてはむしろありきたりな選択肢なのではないだろうか。私は戦争一般に反対するような立場は完全な敗北主義とみなす。というのはそれは戦争によって抵抗するということを不法なことと見なし続けなくてはならないからだ。問題なのはつねにどの戦争に反対するかだ。そのとき暴力を使えないのなら、それは単に無力なだけだろう。もちろん現在の文脈で戦争に賛成することが集団的自衛権の正当化に繋がりかねないとしてもである。さらに天皇の概念と軍隊に賛成する。日本において、というよりもどこにおいても軍隊と明白な敵対をして権力を取れた政権などありはしない。軍隊の利用方法については明白な戦略がなければならない。軍隊を否定することはどのような意味でもありえない。しかし、近代の軍隊概念とは別の軍隊概念を導入することでの軍隊の解散はありうる。そして私は天皇概念に賛成する。天皇はたとえ象徴としても物語としても生かしておいてはならないが、天皇の概念は自分の無知を前提としてのキリスト教ニーチェ主義を乱用して、人間=神の二重性を一人の人間として万人に広めるように導入する。ここから社会批判と、象徴天皇制天皇概念による人間=神の生成、裂け目自体の肯定として扱うことで攻撃する。天皇を批判できるのはつねに天皇の別の政治的利用法によってだけである。天皇制を否定したところで、それが決して相対化されないことはもうわかっており、むしろ天皇を否定することでますます純粋に象徴の役割を果たすようになっている。天皇の世俗化した形態―――アイドルなど―――が純粋な象徴として回帰してくるだけだ。「天皇はあなたのもとにあり」によって天皇の概念の十字架が用意されなくてはならない。共産主義の理念については社会的な変革が終わったら間違いなく共産主義は理念的に使い物にならず、世俗的に変質し始めるので、それを人間=天皇の生成として土台にすえる。私はこれに野蛮がついてまわらないなどということは当然考えていないし、行き過ぎが起こらないなどとも考えていない。重要なのはその野蛮が制度そのものを根本的に攻撃できるかどうかにかかっているのだ。この野蛮さの動員は、民主主義によって生み出された個人の概念による現体制への精神的不満によって、つまり孤立によって導かれる。なぜなら孤立した個人はその存在排除によって体制を手段としてみなすようになるからである。しかしこの点にも問題がないわけではない。というのは、国家を手段として扱うのは、資本家達でもありうるからである。集団的連帯を手段として扱う資本家と、自身の個別的形態を手段として扱う非人間と。ここに私は象徴天皇制天皇=人間の生成が対立する規定を「発見」する。私はベンヤミンが批判したようにナチが創造的個人による変革を提唱したことによる戦争の耽美主義化がどのような創造的個人によっても起こらざるえないということの必然性を見出さないのである。ナチに反対する創造的個人をイニシアティブとした変革があるはずだ。私の賭け金はここにある。集団性への憎悪によって動員されるような政治的形態の創造に。
吉本隆明『丸山真男論』2 - 書き込みと引用