風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

自慰の商品価値2

フロイトはまたしてもこの点に関して先見の明のあることを言っている。フロイト一流の誠実で慎重な言い方を持って、自慰は精力の減少させることよって、残酷な欲動をおさえ、性的節度や社会的規範を守りやすくしてくれるというのである。女性の自慰についてはこれが一層当てはまるように思える。フロイトは自慰が有害であるような一般的特徴や身体的性質に還元することを賢明にも避けているが、これが容易に社会にとって政治的に利用されることは一目瞭然であるように思える。もはや子供を生むことが性の第一の役割でなくなった社会にとって、自慰は恋愛に比べれば無害なのであり、統制的な理念に服従しやすくする一つの方法になったのだ。恋愛を社会的な制度として組み込むことができないのは誰でも認めることであり、社会的な統制を破るための手段として恋愛は物語の方法としていつもよく使われているわけだが、自慰にはそのような心配などないのだ。自慰にはせいぜい学問的な危険があるだけであり、行為として規則が破られるような危険性は存在しない。「インポテンツの社会的理由。市民階級によって生産力は桎梏から解放され自由に発展しはじめたのだが、市民階級の空想(ファンタジー)はこの生産力の未来について考えることをやめてしまったのである。(市民階級の古典的なユートピアと、19世紀半ばにおけるそれとは比較せよ。)実際、市民階級がこの未来についてさらに考え続けられるためには、まず年金という考えを捨てなければならなかったことだろう。私はフックス論において、19世紀半ばに特有の〈心地よさ〉〔への欲求〕が、先のような社会的空想力の、十分に理由ある衰退といかに関連しているかを明らかにした。この社会的空想力がもった未来のイメージに比べれば、子供をもちたいという願望は、ポテンツに対する刺激としてはより弱いものにすぎないかもしれない。いずれにせよ、子供は原罪にもっとも近い存在であるいというボードレールの説は、ここでは彼の本心を覗かせてくれるものである。」(ヴァルター・ベンヤミンベンヤミンコレクション1 セントラルパーク』)あるいは「ボードレールが妊娠を不当な競争と感じざるをえなかったことは、男性のセクシュアリティの犠牲の道程の一部である」(同上)問題になっているのは恋愛の方式の再発明だが、重要なのは、恋愛が貨幣としての流通可能性と一致するのでなくてはならないということだ。そうでなければ恋愛はただの破壊的原理になってしまう。子供を作るという前提なしに子供の存在を組み込める性の方法。子供を共有財産として扱い、性的関係は自由に流通させるという形式ではどうか。いやむしろ恋愛はほとんどプラトニックな性格を持つようになるということになるのか?つまり男性が女性を貨幣にできるような結晶作用、象徴的な規範を与えることができるかどうかに、の価値が置かれることになるのだ。なぜなら社会的な理想というものとは別個に貨幣を創造するために必要なものとは、記号となった男性の人格でしかありえないからだ。女性を、つまり少女を人格記号として置くということは、恋愛の不可能性を貨幣として流通させることにすぎず、結局は倒錯的な性規範に陥ることになる。あくまで恋愛自体を貨幣として流通できるような方法があるのでなくてはならない。ところで男性の理想として残されているものは「汝の隣人を汝自身のように愛せ」だけである。なぜか?フロイトの考えとは逆に抑止としての命令ではなく、憎悪による積極的な人格の破壊と創造という役割において「汝の隣人を汝自身のように愛せ」を流通させることだけが、恋愛の機能を流通できるからだ。だが…私はまだこの可能性をはっきりと肯定できない。いかにしてそのような関係が存在できるのかという点においてまだなにもわからない…。