風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

独裁者の文化

政治的に言うなら、いまさら言うまでもないことだが日本は中国の良き臣下になるべきだということになるだろう。というのは「中立」というのが地政学的にナンセンスな以上、表向きは何らかの同盟に入るのだとしても、もう付き合いきれないアメリカに対抗するための条件を手に入れるためには中国と対等などという妄想やアメリカ型文化を捨て去ることが必要だからである。こういったことを可能にするためには、中国に対するナショナリズム感情をどのようにして克服するかが最大の政治的焦点となる。だがこの視点においてファシズムと対決するとは、もはや既存の政治的概念と決定的に訣別すべきだという意志が必要であり、そうでないならもっと不利な条件でアメリカと「同盟」を継続し続けるか中国の「絶対的な寛大さ」にすがるしかないということになってしまう。日本が陥っているのは紛れもなく民主主義の、もっと正確に言うならアメリカの占領政策の行き詰まりなのだから。繰り返すがこれはただありきたりなことを言っているだけにすぎない。

生きられた文化ニーチェにとって群衆を基盤にするものではありえない。それは個別的ケースに属する出来事であり―――したがって、文化のブルジョワ的概念からすれば怪物じみた奇形である。この概念に彼自身従属しているニーチェは、この概念を破棄しようとするだろう。ところで、文化の概念も自由の概念も同じ穴のムジナである。この両者はともに、きわめて近代的な一つの事象実験という事象を抱合しているのである。文化の概念が隠蔽する隷属性を、この実験がいかにして再制度化するかは後に示すつもりである。ニーチェにとって、このことは次のような表現に要約される。一人の個人のなかに現前するさまざまな力とは、さまざまな闘争やさまざまな外面化可能な制約とはこれこれのものである。このうちのあるものを主人にし、ほかのものを奴隷とするのはいったい誰か。それは実験にほかならない。一人の発明者と、一つの実験対象と、失敗と成功を、すなわち犠牲者と犠牲を捧げる祭司を常に抱合する実験こそが、その区別を下すものである。」(ピエール・クロソウスキーニーチェと悪循環』)

ゲームにおいて人は一般的に独裁者であり、他のあらゆるものを手段として動員する。社会的な危険要素―――狂気、恋愛、戦争、ギャンブル、レース、経営、パズルその他諸々。当然、これには数々の例外があり、個別的ケースに属するものも存在するが、しかし私が問題にするのは、ここでもまた上に述べたことが集団的ケースによって奪取され無害なものに変えられていくということにある。万人が万人に対して独裁者であるという状態は実行可能である。ただしそれは集団的現象としてである。ゲームの主体は民主主義の主体だということに注意されたい。それは純粋に空虚であらゆる人間的特長を剥ぎ取られている主体、人間それ自体である。

民衆と王(勇者と王)は神の殺害の共犯者である。独裁者に本質的に「不法な」と言う言葉がついてまわるのはそのためだ。独裁者という概念が、情欲を隷属させることの障害になっているということは民主主義においては「真理」である。しかしかわりに自由の、勇者のシミュラークルが情欲を隷属させることになる。勇者というシステムはそれ自体としてはただの殺人装置だが、それが何らかの理念と結びつくとたちまちそれは「世界を救う」ということになる。

偉大さが、人類に対する貢献として理解されることは否定されるべきであるということ。偉大さとは人類全体を実験台にすることにかかっているのか。少なくとも我々はコンピュータの実験台ではないのか。「人類の脅威に立ち向かえ!」ではなく「人類の脅威そのものになれ!」という命令を発するべきなのか。コンピュータは確かに人類を実験台にすることに良心の疚しさのない実験者のシミュラークルのひとつである。

実験者における特異性とは、あらゆる存在者を手段として解体していくことにある。人は科学によって知識を得れば得るほど存在を手段にすることへの配慮が少なくなる。それは当然自身の命、自身の死前の生をも含めての話である。実験者としての強度は、存在を手段にすることへの徹底性によって提示される。あらゆるものが手段化された場合、残っているものは何なのか。それは実験者の意志、手段への意志である。

実験という概念についてまわる隷属性は、本質的にそれが工業現象によって集団化可能である、つまり大量生産が可能であるということにほかならないのだが、実験には本質的に貨幣の形態を変更していくという特徴がある。貨幣の価値は犠牲者の質によって決定され、それが不正な交換であればあるほど交換価値が上がっていく。(不正な取引、ではない)。貨幣同士を等価交換することはできないということは逆に言うなら、不正な交換とは等価交換のことであるということを意味する。すなわち不正な交換形式を直接的な表現として提示するような経済規範があれば、それは価値を人間のもとに従属させることができるのだ。ここで不正といわれているのは、例えば飢えに苦しんでいる人間がいて、ダイヤと水どちらがより高価か?というときの不正さではなく、お互いがそれは不正だと知っているような、具体的に言うと、「現実の」貨幣と図書カードのような「不正な」交換によって利益を得ることが直接的な目的である形式の交換である。私はこれをプレゼントの価値と呼んでいるが、資本主義的な生産概念はどこまでも間接的な不正さの利益の交換であるということに対して直接的な不正さの利益であるプレゼントの価値は従属的な立ち位置を持っているわけだが、もしプレゼントの価値が一般化した場合、どうなるのかということを実験するということは、実験の隷属性を裏切るように思えるのだ。