風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

二十八回目の爆発『言い訳の濫用』

・生の倫理性は人生におけるあらゆることを思考することができるという永劫回帰の思考から出発して、およそニーチェ可能性でないような思考というものがありえるのだろうか?回帰の可能性。しかし永劫回帰明晰な思考とは無力さに他ならないのではないのか。
・「一つの思考は下降することによってはじめて上昇し後退することによってはじめて進歩する」。苦痛の思考の可能性は安全さを保証するものとなるか、それとも錯乱するのかのどちらかである。
ウィトゲンシュタインの考え―――いかにして言葉は他者に伝達されうるものとなるのか。そもそも言葉が相手に理解されていることを理解することがどうして可能なのか。言葉は一般性の基盤だということはいささかもそれが他者によって共有されうることの根拠にはなりはしない。経験の実在性の不可能性。
・現実というものがどうして可能なのか。いかなる意味でも現実について相互理解を深めるということなど不可能なのではないのか。そもそも自分だけの現実ということからして構築することができない。なにが現実に属し、なにが錯乱に属すのか。言葉の線引きはどこまでも確定できない。
・物語を他者に伝えるというがその他者とは誰なのか。なぜ他者に伝えることが何らかの満足に繋がりうるのか。物語のリズム、そして伝達の不可能性。物語を語ることなどおよそ不可能なのではないのか。構築された物語を物語として考えることがどうして可能なのか。物語の共有がどういう意味なのかすらわからない。
・生産性の不可能性。生産はそれが無意識的に行なわれない限り不毛なのではないのか。生産はいかなる意味で「正しい」のか。なぜ自分自身の生産などが必要なのか。それは単純にゴミを出しているだけにすぎず、生産が無駄でないと言うことなど絶対に不可能ではないのか。人間の生産は不毛でゴミを出しているだけにすぎず、子を産むことの禁止が殺人の禁止に代わって出されなくてはならないのではないのか。つまりあらゆる可能性の限りの生産活動の選別化。生成の無条件性の拒否。だがいかなる基準でなされるのか。人間栽培のファンタズム。歴史的洞察から人種的・生物学的選別は行なわれえないということはすでにわかっている。残る問いは能力の選別ではなく数による選別である。質は相対的である以上、数が多ければ多いほど質は劣化あるいは「平均化」する。つまり各国の平均人口調査からの妊娠の計画化。子供を生むことを人間の意志決定に従属させること。ここには疑問の余地なくフロイトの去勢概念の精神的な徹底化がある。科学的理想の成就。(私が言いたいのはもちろん人口の増加がGDPの増加に直接結びつくという生産性の概念を批判しているのだが、もちろん解釈するときには「誤解」と「濫用」を一度はやるべきである)。
・人間には生まれる権利があるのではないかという異議に対抗して、人間には生まれない権利というものがあるのではないのか。生まれないことは人生と比較考慮できないからこそそれが良いものとして考えられるのでないのか。このことはもちろんニヒリズムが極限まで行き着いた末の形態である。生まれないことの潜在力はまさに最高の価値ではないのか。つまり最後の商品であり、目指される自由の目標と実験の暴力的な口実の自殺攻撃ではないだろうか。
・「私は私の父としてはすでに死亡し、私の母としては今なお生き延び、歳をとりつつある」つまり死後に誕生すること。人は生きている間は存在せず、死んでから始めて誕生するのである。存在することの、人生を生きうることの、そしてあらゆる行動と意志の不可能性。それは疲労と苦痛のベテランであり、デカダンスを着実に生き、そして解体されきったということであり、人間を解体する―――それは自分の頭脳、人格、そして存在そのものを―――趣味というものが、ますます確実な力となってくる過程の話である。人間は生産をするのではなく、誕生を繰り返すのであり、それも死ぬたびに繰り返し誕生するのである。
『インペリシャブルシューティング』

東方projectにおける不死の概念 - ピンキーの爆発現場