風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

犯罪者について

「なにもかもぶっ殺してやる。こういうときに限って獲物がいない。仕方ないので自分に襲い掛かるしかなくなった。本当はみんな隠れていて陰で笑っているだけなのだ。だが彼はそのような喜劇こそ上演したいと思っていたのだ。ある人は自分が不死であるということを理解して自然死した。そこで人々はそんなものはつまらないのでいろいろな趣向を凝らしているというわけだ。」

人々が普通に生活するだけで自分自身が犯罪者であると感じられてしまう社会。あるいは犯罪者になりたいという欲望を持たざるを得ない社会。、主体は無差別に無意識の中で殺人を行い続ける。我々は実際全員人殺しであり、現実においてはまともな人間であるという夢を視ているのだ。(ジジェク『斜めから視る』)原理主義者は特定の誰かを狙って無差別に殺す。もちろん前者のほうに殺人の自覚は存在しない。そこはもはや殺人が犯せないような領域、あるいは殺人を犯すことだけが唯一の解決策であるような領域である。あらゆるところで殺人は上演され、その意味を日々剥奪され続ける。完全犯罪が日常レベルで行われるようになったとき、それと同時に物的証拠の探索技術は最大になる。私はそれを〈権利社会〉と呼ぶ。多文化主義の極地、いかなる権利も正当化される可能性がある。なぜ権利社会というかといえば、それは権利を行使することは不可能だからだ。(要求することはできる)完全犯罪とはそれが社会のイデオロギー内では事実として認識されないということであり、科学技術の物的証拠では対処できない。なぜなら犯罪はまさにその物的証拠の過剰さによって行われるからだ。つまりあらゆることが犯罪になると同時にいかなることも許される。とはいえこれはもちろん超自我のやり口の範囲内でである。それは超自我は禁止されているものを要求するが、その禁止を破ることは原理的に不可能であるということである。こうして我々は犯罪を行う理由を日々奪われているのだ。伝統的な社会においては犯罪を行う理由ならばいくらでも見つかった。そこで良心というものが役に立つということが信じられた。しかし現在の犯罪を要求する社会においては、それよりもはるかに抑圧的に人々を支配する。なぜなら禁止を破らなければ生きていけないにもかかわらず、あいかわらず禁止は禁止されているからだ。単純な例を出すと常識を破ることが要求されているのに、「常識を破るという常識」を破ることは許されていないのである。これはアーレント全体主義の起源でいったような社会である。つまり法体系の逆立ちそのものが、法になるのである。つまり法律の保護を受けられないということが、まさに法律によって定められるのだ。これが無秩序ではなく秩序であるということが決定的に重要である。社会的再生産はまさに法の外部を生み出すことによって、法を維持している。もはや犯罪を行うことが唯一の生活の手段となったとき、監獄と住居は逆転し、警察があらゆる場所に介入する権利を持つことになる。なぜなら監獄内では警察が権利を行使することに何の不思議もないのだから。逆にもとの監獄こそが警察が介入することのできない唯一の場所となるかもしれない。