風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

「で、あなたは魔法少女なんですか?」「はい。年齢13桁の魔法少女です」

安心院さんが必殺技を大量に投げ捨てたので、超能力バトルはかなり厳しいものになったのだが、超能力は何なのかという問いに対してはまだ開かれたばかりだといえなくもない。『めだかボックス』によって「完全な人間作り」の意味はどこかにいってしまい、キャラクターは自立した考えを持つべきだということになった。不老不死、膨大なスキル、スキル自体を作るキャラクターとキャラクターメイキングをするキャラクターというコンビによるコンピュータのごとき大量の組み合わせ計算によってキャラクターの量産体制が整っていたわけだが、造られたご都合主義のキャラクターによって「悪平等」自体は回避された。自立したキャラクターはいったいどうなるべきなのかという問いは、しかしまだまだ何の解決も見出していない。もちろんどうなるべきでもないという答え自体を出すことは可能なのだが、重要なのは不老不死であり、膨大なスキルをもっており、どのような人格も演ずることが可能な主体を前提とした場合、民主主義はあるいは政治はどういう変化をせざるえないのだろうかということである。いったい何が可能なのか?死ぬことを可能にするための、弱くなるための、愚かさを可能にするための行為が必要になるのだろうか。欠点を欠陥を再生産するということ。「介入し再創造しようとする衝動にとって、現実はどこではじまり、どこで終わるものなのか。科学が探求を深めれば深めるほど、認識は、自分が何を認識しているかから出発して、自分がどれほど無知であるかを知るようになる。現実であると「仮定されたもの」は、〈X〔未知なるもの〕〉として認識に抵抗するようになるのである。」(ピエール・クロソウスキーニーチェと悪循環』)文字通り「無知の知」が生産されるようになるのだ。知識とはある事柄に対する一つの無知を付け加えるだけだということ。知識とは誤りの真理、何が分からないのかということの技術にほかならない。「ニーチェは幾度となくこう繰り返したではないか。「真理」としてのこの「空隙」の概念は生の機能には同化されえず、「真理」という名称は、ある種の生物にとって存続するための必要不可欠な錯誤でしかないと。しかし種の存続などどうでもいいことではないか」(同上)だからウィトゲンシュタインソクラテスに対して言語ゲームで反論したことは正しいのだが、まだ充分ではない。このことが完全に反転したときには、一つの種族が滅ぼされなくてはならない。それが有限の生命しか持たず、わずかな能力しか持ちえない脆弱な人間存在にほかならないわけだが、当然キャラクターたちは嫉妬深い神なので、人間を羨むに違いない。つまり人間は羨むにたる欠点を持たなくてはならないのであり、神々を楽しませるためのお芝居としてこの欠点を享楽してもらうことが必要なのだ。