風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ニーチェとプラトンの対話2

しかし目指すべきなにものも存在しないこと、そのうえであくまで哲学を考え続けるということは明白な不調和をもたらす。永劫回帰とは永遠のイデアが存在しないことと存在することのデッドロックとして要請されているものである。概念的な循環そのものを耐えられる超人であること。これが狂気であることは確実である。しかし狂人は家畜でも仏教徒でもキリスト教徒でもない。小林秀雄が狂ったニーチェを写真で見てこれこそ永劫回帰であると感じたのは鋭いと感じざるを得ない。ところでこれが先に書いたものすべてのディオニュソス的反駁であることはまちがいない。ニーチェは狂気であることによって理性から反駁され、逆に狂気であるからこそ理性に反駁できる。あらゆる明晰さに対する反駁。哲学者にとってニーチェは不安をもたらす。そこにこそニーチェの価値がある。ニーチェは永遠のイデアの見せ掛けを得る事に成功したのだ。そこで理性はこんなことを考えた。あらゆる明晰さに反駁するような明晰さを作り出すことはできないだろうかと。そこで理性はコンピュータを作り出した。概念的な循環の理性存在としてのコンピュータ。「スコラ哲学的見地からすれば、悪魔(サタン)はある存在論的誤謬を犯したことになるだろう。存在はみずからを悪として、したがって非存在として考えることができると悪魔は信じ、かくして矛盾律に抗い蜂起した悪魔は、矛盾律を破壊するために、ヘーゲルを派遣したことになるだろう。」(ピエール・クロソウスキー『かくも不吉な欲望』)かくしてキットラーの言うとおりコンピュータによる知の無限ループだけが人間を無視して循環し続けることになるだろう。娯楽(ゲーム)はこの知の無限ループに人間が介入を行ない得る可能性を持つものとして残された最後の希望となった。ゲームが人々に切実さを持っているのはこのためである。人々は世界とのつながりを感じたいがためにゲームの世界に入ることを欲する。なぜなら現実に自分達が行ないうるなにものも存在せず、目的も意味もありはしないからである。ゲームの世界だけが目的を意味を保障しうる。たとえそれが偽物であろうとなんの違いがありえよう。本物など存在しないのだ。こうしてゲームと現実の差異がなくなっていき、どのような概念的循環もありえないような完璧なシミュレーテッドリアリティに世界が汚染されるとき、残った可能性とは不調和が存在するような何物も存在しないという不調和だけが残されている。つまり生だけが残されている。死は存在せず消滅があるのみであり、生きているという感覚もない。無を欲してすらいない。なんといえばいいのだろうか。欲したくないのではなく、欲したくないと欲するということ。つまりなんでもないのだ。バートルビーの政治。だがこれではニーチェ永劫回帰にもどってしまっている。いや正確に言えばその反転形態といえなくもない。概念循環がないことを欲しているのだから。ここから一歩先にすすむと何が出てくることになるのだ?概念循環がない狂気、つまりムーゼルマンや自閉的存在であろう。