風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

新しい芸術批評のためのプログラム4

「(…)いまや社会は、あらゆる分野における実験のエスカレートによってのみ支えられているのであり、そのために、たえず更新される科学と経済の諸規範に比較して制度的な諸規範は妥当性をなくし、個人と社会の均衡喪失がもたらされている。この非妥当性が現代の日常性のなかで明確にあらわれればあらわれるほど、時代錯誤的な制度の名においてというよりはむしろ交換可能な富の生産の名において行使される検閲は、それだけますます厳しさを増す。唯一物品の生産と交換だけが、理解可能なるものの領域を形づくる。そして交換可能になるものの生産の能力が「健康」と「病気」とのさらには社会正当性の、さまざまに変化する規範をうち立てる。道徳の次元で言えば、この検閲は、誰であれ検閲に違反するものに、理解不可能であるという罰をくだすか、あるいは非生産的であるとの烙印をおすのである。」(ピエール・クロソウスキーニーチェと悪循環』)
「一読してわかるとおり、ここでもまた、ニーチェ人類シュティルナー的な意味での純粋な抽象)の運命などいささかも気にしていない。ニーチェは人類を、あいかわらず厳密に「芸術的な」視点から見た材料として考えているのであり―――未来の世代の価値は、常に個人的な成功にかかっているのである。しかしその立場は、ここではどのようにして表現されるのか。まさしく人類の質についての気遣いとしてである。その気遣いは人類の運命に対する道徳的な帰属について云々するが、じつはそれは、特異性―――それ自体としては瞠目すべき―――を満足させるための手段に過ぎないのだ。つまり、至高の傲慢さの開花のための。」(同上)
「ところで「全地球的管理」の唯一有効な「合法化」として、「非生産的」生き方―――労働にいそしむ集団という全体という文脈の中で―――を支配するような人間類型を扶養するという務めを定めること、これはとりもなおさず、寄生生活を聖化することにほかならない。これは、工業化社会のあらゆる道徳への、先取りされた挑戦である。工業社会における生産原理は、交換不可能性のなかに生きる者すべてに良心の咎めを感じさせるのだし、全体の生産性に何らかの形で組み込まれても隷属していないような、そんな文化や生活圏はまったく容認しようとしないのだ。諸情動に対する圧迫のこの企てがいかに広汎に広がっているか、それをニーチェは充分認識していたのだが、彼はその企てに対して自分の選別の諸計画をまるで恫喝のように対立させる。」(同上)