風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

戦闘美少女は核兵器よりもどの程度悪質なのか

哲学者ピュロン。およそギリシア人の中で、彼ほど穏やかで、忍耐づよい人間はいなかった。ギリシア人ではあるが仏教徒、むしろ仏陀その人といってもいいようなこの人が、ほんの一ぺんだけその手に負えなくなったことがある。誰のせいか?―――一緒に暮らしていた妹のせいである。妹は産婆であった。それ以来哲学者達が最も怖れたのは妹であった。―――妹!妹!なんという異様な名だろう!―――そして産婆であった!………(生涯独身制のはじまり)」(ニーチェ『遺稿 1888年春 14[60]』
物語はどのような形式をとれば宗教へと変質するのだろうか。世界を滅ぼす電脳空間の洪水とアーキテクチャの塔。我々は戦闘美少女に何を求めているのか。何を求められているのか。どんな関係にあるのか。かわいさの強度と信仰との関係性。「彼女は私の妻でもあり私の妹でもある」どうして我々が罪を引き受けないことがあろうか?我々悪霊が乗り移った豚たちがインターネットの大海に溺れて死ぬのをキャラクターたちは実に愉快に見ないのだろうか。なぜ妹は最終兵器なのか。アンティゴネー。しかしそれにしても西尾維新の妹、妹、妹には感激させられる。いったいなんなのか。一種の強迫観念なのか。コードギアスから東方にいたるまでこの妹の過剰はなんなのか。いったい我々は妹の番人だとでも言うのだろうか。
しかしこのような選択肢のほかにも、母親を食べるという選択肢が残されている。自身を母のポジションにおくということ。クロソウスキーニーチェが母のポジションに移ったことについての解釈を提供している。「つまり、父親の亡霊のかたわらにいる母親に自分を置きかえることによって。その結果、あいかわらず生きている母親ニーチェの不可解な状態を気づかう母親は、(…)ニーチェ自身の病気をあらわす記号となる。その一方で、死んだ父親、父親の亡霊は(…)生の意味を、生の価値を、あらわす記号となる。―――しかし生それ自体をもう一度見出すために、二ーチェは、自分自身の母親として、自分自身をもう一度産みなおし、自分自身の被造物となるのである。」(ピエール・クロソウスキーニーチェと悪循環』)
ニーチェにとってそのカップルは、かつてのワーグナーのカップルが類比的にそうであったのとは異なって、「父性的」カップルではもはやない。それは「兄と妹」のカップルであり、「迷子たち」のカップルである。そのカップルをまえにして、ニーチェ第三者としてなかに入りこもうとするのだが、同時に精神的父親であり愛人でありライヴァルでもあるものとして行動しようとするために、結局は入りこむことに失敗する。」(同上)
つまり病気の記号としての母親を取り込むこと。「父親としてはすでに死に、自分自身の母親として行動する」こと。このことが可能になるためには、母と妹を同一視するという錯乱を引き受けることが必要となる。父は死んだものとしてすらもはや存在していてはならず、単にライヴァルとなる。亡霊から肉体をもった人形となることによって回帰する。だが、そうなってもらわなくては困る。こうすることで、父‐母‐妹の全てが欲望の対象としてそろうのだから。