風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

新しい芸術批評のためのプログラム5

「「超人」という語は、最高にできの良い人間というひとつのタイプを言い表す語であり、これと対立するのは「近代」人であり、「善」人であり、キリスト教徒やその他のニヒリストたちである。―――「超人」は道徳の絶滅者であるツァラトゥストラのような人物のような人物の口を借りて語られると、大変重要な意味合いを帯びてくる語となるわけであるが、ところが、この「超人」という語が、ほとんど至る処で、まるで無邪気に、ツァラトゥストラという風姿を借りて現しておいたものとは正反対のさまざまな価値を意味するものに誤解されてきているのである。例えば「超人」とは、半ばは「聖者」で半ばは「天才」でもあるようなより高級な人間の「理想主義的」なタイプであると解するなどが、それである。………そうかと思うと、頓馬な学者がいて、「超人」という語から察するに彼はダーウィン主義者だ、などと私にあらぬ嫌疑を掛けたりした。そもそも自分の思惑に反して大の贋金つくりとなったカーライルの「英雄崇拝」、これについては私はあれほど意地悪く拒絶しておいたはずなのに、「超人」はカーライルの「英雄崇拝」の再来と認められる、などと言った人も出てくる始末である。そこで「超人」の例ならパルジファルのような人間よりむしろチェーザレ・ボルジアのようなタイプの人間を探した方がいいですよ、と私がある人の耳に囁いたら、その人は自分の耳を信じようとしなかった。」(ニーチェ『この人を見よ』)
このような文章を読んで「超人」という語で真っ先に思い浮かべるのは「ジョジョの奇妙な冒険」のDIOであろう。しかし彼は世界征服などというどうでもいいことを恐怖から始めざるをえなかったという点で不完全であった。世界を征服するなどということは抑圧された貧民の夢に過ぎない(「コードギアス」のように手段としての世界征服なら考慮の余地はあるかもしれないが)。同じ吸血鬼で考えるなら、城平京の「ヴァンパイア十字架」に出てくるローズレッド・ストラウスの方がはるかに完全である。だが彼は自身のあまりの「強さ」ゆえに人類の前に敗北を喫した。虚淵玄の「Fate/Zero」に出てくるギルガメッシュも比較的成功した例ではある。しかし彼はキリスト教の理解をあまりにも欠いていたため、セイバーに最終的に敗北してしまう。では「めだかボックス」における黒神めだかはどうであろうか。彼女は確かに前の三人よりもはるかに完全で「人間的」であったが、民主主義の前に敗北した。これは問題である。そもそも民主主義に勝利できる「超人」など存在するのだろうか?しかし民主主義に勝利できる「超人」がいたら、それはそれで問題ではないのか。それはただのファシズムに過ぎないだろう。つまり民主主義勝利できる「超人」でなくてはならないのだ。そんなものはありえるのだろうか。もちろんここで「愚行権(デビルスタイル)」を持った人吉善吉がそれであるということは可能であろう。つまり理想主義的でなくなった「お人好し」がニーチェの言う「超人」であるということだ。すると問題はどうなるのだ?このあとの「めだかボックス」展開はディスクールの行き詰まりを突破するために精神分析的な神話まで用いて実験が行なわれるわけだが、その帰結は黒神めだかは殺すことが不可能な存在であるということだった。そして最終的には何か不可解なハッピーエンドで終わる。これはどういう意味なのか?ようするに球磨川禊と安心院なじみの問題は西尾維新の小説版や読みきり版での努力にもかかわらずなにも解決されていないのではないかという疑問を感じざるえないということだ。別に人吉善吉が「超人」であることに不満があるわけではない。しかしこれではなにかがしっくりこない。つまり別の不満があるということ。その不満とは何か?