風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

「権力への意志」の還元論的読解2

「(…)―――私の攻撃するのが、およそ万人の入費が増大するにつれて万人の利益もまた必然的に増大するに違いないかのごとく考える経済的オプティミズムであることが、おわかりであろう。私にはこの反対が実際であると思われる。すなわち、万人の入費は総計すれば総体的損失となる、人間の値段がいっそうさがるのである、―――だから、総じて以上の巨大な過程が何のために奉仕してきたのかが、もはやわからなくなるのである。一つの何のために?一つの新しい何のために?これこそが、人類の必要とする当のものなのである。」(ニーチェ『権力への意志 八六六』)

「権力への意志」とコンピュータはどのような関係にあるのか。コンピュータはまさしく「権力への意志そのものではないだろうか。人間を資材として利用し、どのような道徳も権力への意志として利用し、人間に生きる意味を与えているものではないのか。しかし逆の見方をすることもできる。コンピュータはどの程度人間にとって「権力への意志」理論を受け入れるための障害となり、人間の意味を奪っているのか。コンピュータは「超人」とは違い、人間をさらに水平に平等化していくのではないだろうか。コンピュータこそが人間の値段をさらに下げているのではないだろうか。コンピュータは人間に意味を与えているのではなく、無‐意味を与えているのではないだろうか。コンピュータは価値判断を持たないのではなく、価値判断を奪うのである。もしコンピュータが政治的主体としてたち現れるのだとしたら、それは民主主義の最終的成果、万人のごみ化(プロレタリアート化)に終わるだろう。それに対しニーチェは人類の発展を犠牲にできるだけの価値のある高級類型を持ち出すことによってそれに対抗するのである。

「(…)厳密に言えば、存在するものは総じて何ひとつ許容されてはならない、―――というのは、そのときには生成は何一つ価値を失い、まさしく無意味な余計なものとみなされるからである。したがって問題となるのは、いかにして存在するものという幻想が生じうる(ざるをえない)のかということである。同じく、いかにして、存在するものがあるという仮説にもとづくすべての価値判断がその価値を剥奪されるのかということである。しかしこのことからわかるのは、この存在するものという仮説がすべての世界誹謗の源泉であるということである。(―――「より善なる世界」、「真の世界」、「彼岸の世界」、「物自体」)。」(ニーチェ『権力への意志 七〇八』)

ニーチェには新しい世界を作り出す必要性はまったくない。しかしだからこそ科学にどのようにしてニーチェの概念が導入されるのかが問題となる。なぜなら科学はまさにこれらのもの(―――「より善なる世界」、「真の世界」、「彼岸の世界」、「物自体」)を現実に存在するようにさせてきたからである。「まったく意外なことであるが、ヒットラーは歴史上の人物のうちでだれをモデルにするかと尋ねられた際に、予想されたビスマルクの名は出さず、何とモーセと答えたのである。こうした魔術師的独裁者たちは、もはや支配統治を行なうのではなく、やはり演出を行なっていたということが十分に理解されてこなかったのではあるまいか。(…)ヒットラーの犯罪が異常なのは、他の誰よりも早く科学技術がもたらす手段を取り入れて犯罪をおこなったという事実からも同時に説明できるのである」(ポール・ヴィリリオ『戦争と映画』)このようなファシズムに対し、ニーチェはどのように答えるのか?「結論。すなわち、独居的類型を群居的類型に従って評価してはならない。また群居的類型を独居的類型に従って評価してはならない。高所から観察すれば、両者ともに必然的であり、同じく両者の敵対関係も必然的である、―――そして、この両者から何か第三のものが発達すればとのぞむあの「願望」にもまして追放すべきものは何ひとつとしてない。(…)類型的なものを発展し続けさせ、間隙をますます深く引き裂くこと・・・」(ニーチェ『権力への意志 八八六』)