風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

結婚における子供の機能2

萌え絵とはフェミニズムの症候なのではないのか?近代的な過敏と神経衰弱に対する処方箋としての残酷なもの、無邪気なもの(白痴的なもの)、技巧的なもの。つまり神経衰弱にかかっている女性への治療薬、あるいは男性が女性信仰を維持するための必死の手段なのではないか?我々はフェミニズムによって結婚できる女性がいなくなってしまった!という事態にならないように気をつけよう。いったい女は男を虐げないとでもいうのだろうか。女に苦しんでいるすべての男達の心情はどうなるのか?結局、この点に関しては、女性の権利についての最大の擁護者、つまりサドの態度を見習わなくてはならない。そんなことになったら男は、スキュタイ人がアマゾン族にしたように、狂暴な女性に若い青年を差し出して子供を生ませることで何とか対処するしかなくなるに違いない。女性教育がおおっぴらに宣伝され擁護されるとき、それは男が女にあまりにうんざりしているので、厄介払いの手段としてそれを利用しているか、教養ある女性が教養のない女性を軽蔑するために必要としているのかのどちらかである。私はアーレントのように古典的な態度で学問を考えている女性や、職を得るために学問を学ぶ女性については何も言わない。しかし、ルソー的な学問を云々するのなら、それは地位を得るための口実として学問を利用しているにすぎない。さらに何のために地位を欲しているかが問題になる。それが復讐のためにすぎないのなら軽蔑するよりほかにない。そもそも女性を積極的に労働力として扱おうとする傾向は、前大戦の総動員の方法から生み出されたものなのだから、労働力が特に不足しておらず、むしろ職が不足しているような状況で、女性を労働力として積極的に扱うのは危険な徴候なのである。もちろん女性を家事一般に縛り付けていた圧力がなくなり、女性も社会参加できるようになったというのは、それ自体としては喜ばしいことであるだろう。だがそれでどんな対価が払われなくてはならないのかが問題なのである。少子化の解決と女性の解放というものは、それがどんなに切実であろうと両立しない二つの政策である。そもそも少子化を改善したいのなら、女性を労働力として扱うべきではない。しかしそれは女性の社会参加と、もっというなら女としての可能性と矛盾する。残る選択肢は、子育てを家庭から完全に分離することである。ゲームの物語はほとんど、子供の家庭からの分離という啓蒙の役割を果たしていないか?老人ホームと幼稚園などの施設を合体するというのは一考に値する問題だが、それは女性が母としての役割を根本的に捨て去るという条件付である。子供は育ててくれた方の人物を親と思うものだ。論理的にいえば、子供を生む役割を科学が完全に代理すれば女性は「解放」されることになるだろう。そうなると女は男の快楽の道具にすぎず、男は女の奴隷にすぎなくなるから、恋愛はスポーツの一種のようなものとして考えるよりほかなくなる。女はいてもいなくてもいい存在、つまり贅沢品になる。男は科学の奴隷として相変わらず必要だからであり、女性が科学者になっても、科学で子供を作るよりほかやることなどない。一度科学で女性なしに子供が作られるようになれば女性はもう用済みである!女性が最も強いのは、男性を子供を生ませるための手段として考えているときなのだから、男こそ「女性から解放された!」と凱歌をあげざるを得なくなるだろう。