風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

学問とは何のためにあるのか2

「学問は決して誰にでもわかるものにはなりえない。なぜなら誰にでもわかる証明など存在しないからである。したがって誰にでもわかるのは、学問の成果についての報告と、公共の福利にとっての結果だけにすぎない。」(ニーチェ『遺された断想 1871年9[66]』)
裏口を覗き見るのか?お望みならば答えよう。学問、それは後世の高貴な人間の下僕となるためにのみ存在するのだ。学問は目的ではなく常に手段でなければならないということ。これは芸術家なら本能的に知っている。ルソー以来学問はあらゆる大衆扇動に一役買ってきた。ここには学問というものの深い誤解があるのだ。学問が大衆向けの理想に作り変えられ、孤独を避けるためのありとあらゆる作り話が捏造された。権利を教える学問など誓って言うがなんの役にも立たない。ただ演説に役立つだけだ。勘違いしないでもらいたいが、貧しいもの、病める者、抑圧されている者たちはその経験から生きた貨幣になるのが多少はより有利であるとしても、それは彼らがより良き者、正しき者、心豊かな者であるなどということには決してならないのだ。金や権力はないよりはあったほうがいい。すべての賢者たちは、金や権力がまさに執着を生みだすものであるということを見抜いていたために、これに近づかない方が良いとの判断を下してきたのだった。イエスが自分を低くする方がより偉いといったのは律法学者やパリサイ人たちがうようよしていて、えらがりや権威主義が幅をきかしていたところで語ったのであり、イエスは「カイザルのものはカイザルに」という言葉もあるし、百人隊長の件にもあるとおり、病める者たちにむかって語ったのであって、健康なもの、自分を高くしなければならぬ軍人の隊長や政治家たちにむかって話したのではないということをよく理解しなくてはならない。もちろんキリスト者は自分を低くしたほうが偉いだろうが、私としてはなぜ偉い方が良いのか、という質問を出したいところである。いうまでもないが権力と真理は決して両立しない。学者の特異体質が権力に断固たる反対を下すのは本能的な理由があるのであり、あまりにも学問の研究を権力によって邪魔された経験があるのだ。だからといって権力そのものを誹謗するのはフーコーのやったことを全面的に無視することになるだろう。学者は権力を嫌うからといって決して権力がないというわけではないということ。むしろ学者は権力を誹謗するという権力を深く発達させるということは現在目にしているところである。いったい不正をなくせば政治は良くなるとでもいうのだろうか?これ以上有害な迷信はありえない。不正がなくなれば、ただ明白な隷属と抑圧が見えるようになるというだけのことだ。人はむしろ不正を必要とする。明らかに自分に対する不正を必要とするのだ。それが近代の学問というものの正体である。科学?科学が何かここで役に立つとでもいうのか?科学はむしろ一つの逃げ道、どこまでも暇をつぶせるためのとっておきのおもちゃなのではないのか?科学がいかに多くのものを隠さなければならないのかは周知の事であり、科学が人に生き方の意味を与えることは全然ないということ、いくら病苦が治せる様になったところで人生の問題は何も解決されないということを隠すためにのみ科学は存在している。月にいけることはロマンを与えるかもしれないがそれはなにかすごいことなのだろうか?明らかに科学は生産力の増大を除けば暇つぶしの道具なのだ。生産力の増大も管理や独占のためにしか使われなさそうだし、暇つぶしの道具は生きる意味を与えることはあいかわらずありえない。よく訓練されたペットはたとえどんなに混乱していても、自分の受けた教育の因果的遅発効果に服従し、効率的な奴隷として新しい御伽噺を聞かせてくれるであろう。そうファイヤアーベントは言っている。こうなると学問は暇つぶしの道具ということになるのか?ここまでくれば私が最初に言ったことをくりかえしてもいいだろう。それは後世の高貴な人間の下僕となるためにのみ存在するのだ。したがって、学問は高貴な人間、つまり生きた貨幣になるための方法として考えなければならないことになるであろう。ところでそんなものは誰にとってもという形では存在しない。つまり残っているのは芸術だけだ。