風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

結婚における子供の機能3

「女たちの大きな欠点、多少とも男の名にあたいする男にとってもっとも不愉快な欠点は、感情ということでは大衆は低級な観念にしか到達しないもなのに、彼女らは大衆をもって生活の最高の審判官としていることである。もっともすぐれた女でさえそうだ。多くの場合自分では気がつかず、その反対だと信じたり言明したりはするのだが。」(スタンダール『恋愛論』)
カントとの結婚の定義「性を異にする2人格が互いの性的特性を生涯にわたって互いに占有しあうための契約」(Ⅵ,277)とスタンダールの「恋愛とは自ら鋳造した貨幣で支払われる唯一の情熱である」(同上)のどちらが正しいか、私は何も言いたくない。女性は子供を生むことで、自身の貨幣を生産するのだが、男性はこの点に関してはなはだ不利な状況である。なぜならもはや家柄や血統などは問題になりようがないからだ。子供は子孫の繁栄のための道具ではなく、夫婦の「愛の結晶」になってしまった。しかしこれすらも、時代遅れになりつつあり、子供とはもはやなんでもなくなっている。正確に言えばペットだということかもしれない。生きた貨幣としての理想の存在であり、その享楽的な使用対象物になる。子供は使用価値を持つとともに、何か理解しがたい存在でもあり、子供を性的使用に利用しない限りは、ある程度まで流通可能性を持つ。子供を性的に使用してしまえば、前にあげた近親相姦の例のいずれかにはまる。結局、子供が将来の可能性を担保しないのなら一体どう始末するべきなのか?もはや子供をルソー以前の存在のように扱うことはできないだろう。それは間違いない。だからといって子供が大人と同じ存在であるというのは不可能である。大人と子供の区別をどのように引きなおしたらよいのかという設問は、例えば性的な流通可能性を持つ、ということであれば、過去には相当に幼い子供とでも結婚していたという事実を考えればおいそれとそれでいいというわけにはいかない。また学校という施設で社会の役に立つように「教育する」というわけにもいかない。近代的理念はすでに死んでいるからだ。家族がそれを引き受けるといっても、もう家族自体がその役割を拒否せざるえなくなり、子供を余計者と感じている。子供だけのユートピアを作るためには、大人を奴隷にしなくてはならないが、そのための手段は直接的には子供にはない。たとえ家族を手段として扱う場合でもそうである。子供が有利な点は社会関係の道徳を持たないという点にあるが、仲間を集めるためにはコンピュータやスマホなどの流通手段がどうしても必要であり、それを初期投資として手に入れるためには家族を媒介するしかない。すでに解体されてしまった家族が子供を育てるのは、何によってか?親に対する性的関係以外での使用価値を表現することでである。ここでも資本の場合と同じように、この投資からどこまで利潤を増やせるかという点が問題になる。親が子供を使用価値として扱う以上の価値を生産するのでなくては子供が余計者(ペット)という概念から抜け出す手段はない。