風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

学問とは何のためにあるのか

「自分の青年時代、たとえば学生時代を思い出しては溜息をつくような人々は、私には驚きのほかない。それは、彼らがより不自由になったということ、あの頃のほうが良かったということのしるしだろう。私が感じているのはまさにこの逆で、少年時代や青春時代ほどありがたくないものを私は知らない。いま私は、自分が以前よりもっと若く自由だと感ずる。」(ニーチェ『遺された断想 1876年夏 17[30]』)
ベンヤミン。学生が自らの時間を無駄にするのは、自らの青春を謳歌したいという観念に取りつかれ、残る自分の将来といえば結婚と就職だけなのだからせめて学校生活だけは楽しんで暮らそうと考えから生まれる。若さの名における俗物根性との条約締結は高くつく。自らの学生生活を台無しにしてしまったものは、自身の青春を遊び呆けて過ごしてしまったという意識をどうにかして厄介払いしたいと渇望し、ますます思い出にとりつかれる。ああ、なぜ自分だけは何の意味もなく価値もなくただ生きているだけなのか?ただただ齢を重ねるばかりでなにもわからない。昔夢見ていたような自身に対する尊厳はどこに行ってしまったのか?自分だけは他の人間と違っているという意識、なにもかも最高の存在であろうとする欲望、あらゆる問題に対する真剣な努力。それにもかかわらず一切が思い出だ!孤独―――それだけが自らの穴倉を見つける。もはや誰にも出会わない。知っている人間は知らない人になり、友情がただのおしゃべりと化してしまうときのあの焦燥感。自分のみじめな生活を売り渡そうと次々と誘惑がやってくる。辺りを見回すとざわめきの中の空虚な空間がぐるぐると回転する。人間の醜悪さに嘔吐を催すばかりだ。残る可能性、それはなんとかしてこの空虚を、青春の浪費を、無意味なおしゃべりを断固たる否をもって教えることだけだ。学生にはなんの知識もなくなんの権威もなく何の経験もない、あるのは絶望と否定。だがそれだけは教えられる。何とかしてそれだけでも教えなくてはならない。そう、我々はここから創造を始めるのだ。孤独というものを学び、敵対というものを学び、なによりも学問の意味を学ぶ。つまらない学問、それは嫌だ。我々は楽しく、華やかに、悠々たる足取りをもって学ぶ。椅子に座るような堅苦しい学問など御免被るのだ。学問をつまらなくしてしまったあらゆる欠伸、あらゆる空腹、あらゆる雑音とおさらばしよう!さあ一歩だ、読みたい本を読み、それを考えよう。あらゆる意味で考えよう。なぜ自分にとって価値があり、それは断じて私の価値なのかということを考えよう。