風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

戯言遣いの生産

「位階を決するのは権力量であり、君自身がこの権力量にほかならない。残余のものは臆病である。」(ニーチェ『権力への意志 八五八』)
「私の教えようと欲するのは、多数者に我が身を抹殺する権利を与える思想、―――育成する偉大な思想である。」(同上『一〇五六』)
いかにして訓練を行うのか。出発点は我々の文化である。文化がおよそ新しい商品の発明にある限り文化は多様性の輸出入にすぎない。グローバル化の転換は輸出入の経費の大幅な削減にあったのだから、いかなる情報商品も内容が飽和しインフレになるだろう。残る問題は生産力の維持にあるわけだが、ここから若さへの欲望が発明される。労働によって疲労した人間にとって青春の活力と理想への殉教は、生の無意味さに耐えることのできない臆病を表しているがゆえに享楽への意志となって発現する。際限のない青春の消費と退化の享楽が実行され、精神を含めた完全な貧困に至るだろう。だから教養ではなく訓練が臆病さに対する認識、批判、軽蔑によって価値転換に至るまで行われなくてはならない。価値転換が実行された場合、権力だけが流通の基準を決定する。権力量は与えられた記号に対して奴隷(信者)となるか、理解によって対等になるか、記号を与え返すかで評価される。誤解される側が常に有利であり、不満を抱く側は不利となる。理解の評価における命の奪い合いに価値があるのは、貨幣や願いが外在化されている場合だけであり、命を奪えば、敵を誤解することになるというのは、これまで失敗してきたあらゆる革命運動の教訓である。奴隷同士のゲームに愉快犯あるいは道化が混ざるのは奴隷を嘲笑するためでしかない。等価交換可能な一般財は市場制度で十分機能するのであり、我々が攻撃しているのが消費者と労働者に対する消費流通管理であるということを忘れてはならない。欲望の幻想は消費税や賃金がいくら上がろうが購買と労働力提供の拒否ですべて片付く。