風鈴神社

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「権力への意志」の還元論的読解3

「凡庸さを凡庸にもとうとは欲せ、例外的存在で凱歌を感ずる代わりに、臆病、虚偽、卑小、悲惨に悲憤しているのは、不条理な軽蔑すべき種類の理想主義である。これとは別様に意欲してはならない!そうすれば間隙はより大きく引きさける!―――高級種はおのれの存在のために捧げなくてはならない犠牲によっておのれを分離するよう、強いられるべきである。主要観点は、距離は引きさけるが、いかなる対立もつくりださないということである。中間種が解消してその影響を減ずるということ、これが距離を保つための主要手段である。」(ニーチェ『権力への意志 八九一』)

ニーチェはナチのコーポラティズムを望んでいるのだろうか。つまり厳密な意味で階級が定められるということ、二つの階級が存在するということを望んでいるのだろうか。だがニーチェにとって存在するものはすべからく世界誹謗であるのではなかったか。ニーチェが言いたいのはこうである。ある一つの人間種が二つに分裂しているということ、どこまでも分裂したままであろうとすること。対立が存在しないのはこの分裂には共通の価値認識が存在しないからである。ここまではマルクス階級闘争と同じであろう。違いはニーチェプロレタリアートを団結させようとしているのではなく、さらなる分離を望んでいることである。なぜなら例外的存在が凱歌を感じるためには社会的不平等が必要不可欠だからである。

「現代から離れていることの利益。―――個人主義的道徳と集団主義的道徳というこの二つの運動にかかわりを持たないこと、―――なぜなら、個人主義的道徳もまた階序を知らず、各人に万人と平等の自由をあたえようと欲するからである。私の思想は、或る者に、ないしは他のものに、ないしは万人に恵与すべき自由の度合いをめぐっているのではなく、或る者ないしは他の者が、他の者ないしは万人におよぼすべき権力の度合い、すなわち、自由を犠牲にし、奴隷化させることが、高級類型を産出するためにどこまでその地盤を提供するのかの問題をめぐっている。最も粗雑な言い方をすれば、こうである。人間にもまして高級な種族を生存せしめうるようにするためには、いかにして人類の発展を犠牲にしうるであろうか?―――」(ニーチェ『権力への意志 八五九』

このことを理解するためには、ニーチェが文化とは奴隷の生産物であるというふうに捉えていたということが決定的に重要である。「そしてそれを生産したことによって、「奴隷」は意識的な「主人」になった。―――そうヘーゲルは証明したのである―――ニーチェにとって、文化の主人となった奴隷―――それはキリスト教道徳にほかならないのである。」「そもそも芸術は、隷属的意識が自律的意識に変貌したことの証拠ではなかったか。しかし、それゆえにこそ、今度はまた新たな隷属性の支配がはじまるのだ。というのも歴史的・人間的世界はまさしく情動のかずかずを沈黙させることには失敗したからだ。」「それでは、情動が存在する限り、そしてそれらが余暇を前提とする限り―――その余暇は大多数の人間たちの隷属を要求せざるえないのだろうか。これは問題の立て方がずれている。情動はほかの情動の数々を隷属させる―――ただしまず最初に他の個人たちを従属させるのではなく―――同一の個人のなかでそうするのである。諸情動の振舞いは、その個人が集団的人間か個別的な人間かを選別する。そしてニーチェにとっては「集団的」とはすなわち「隷属的」ということにほかならないのである。」(ピエール・クロソウスキーニーチェと悪循環』)