風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

凡庸な芸術家の奇妙な廃墟

私自身を精神分析の興味ある材料として提出します。
私の「強者」という概念は言うまでもなくジジェクプロレタリアート概念に大きく依っています。私としては最初ジジェクが「英雄の証明」からプロレタリア貴族主義を持ちだしてきたとき、実に残念に思ったものです(「英雄の証明」は大いに気に入りましたが)。というのは結局これではニーチェの貴族主義と対して変わらないし、それはジジェクにとって気に入るような人たちだけの厳選だと思えたからです。マルクス主義が、結局英雄主義や偉大な人物を持ち出さざるをえないのは、政治経済学批判からは政治経済を改革しようとする意志は決して導かれないということがわかりきっているからです。もしマルクス主義が偉大な人物なしで、自分達の立場を肯定することができるのなら、私はマルクス主義に全面的に賛成だったのです。そもそも「奴隷」という言葉はニーチェの定義から言うと、何らかの情欲に隷属しているあらゆる形式存在ということになるのであって、社会的な人間的抑圧のことを必ずしも意味しているわけではありません。私はその抑圧に対しては「解放」されるべきだとは思いますが、それは隷属を別の形式のものに取り替えるだけのことにすぎず、理想的な国家とか、そういうものはまったく信じられないのです。私が独裁者のことに言及するのは、宗教的な犯罪者に限っての話です(私が言わんとしているのは当然創始者の犯罪だということです)。結局新しい形式は最初は神秘主義としてしか現れようがありませんし、それがしだいに社会制度、経済、法律、文化、芸術、娯楽となって人々を隷属させ、ひとつの理念として花開くようになるのです。近代はこの点で実に不幸な場合であって、あるひとつの国家や文化が誕生するには暴虐な犯罪が必要不可欠であり、経済的堕落は戦争によってしか取り除かれないとはいえ、アウシュビッツや原爆は計り知れないほどの脅威として君臨しています。それに現在のグローバル資本主義の全地球管理的状況で安易に戦争を国家誕生のために必要だとは、そのことを人類が手段としてすでに認識している以上、迂闊に言うことができないのは当然の配慮というべきです。しかしそれでも依然として状況は変わっていませんし、近代の必然的な矛盾、つまり人間の精神と普遍的理念の齟齬は決定的に埋められないままで残っています。ファシズムにとって、マルクス主義が邪魔なのはマルクス主義の概念が国家にとって脅威だからではなく、そもそもマルクス主義がファシズムにとって大事な下流、中流階級の、上流階級に対する、ブルジョワに対する憎悪を奪うからなのであって、だからこそ彼らはマルクス主義に対しては感情的で稚拙な反論で充分なのです。そしてそれがマルクス主義にとって有利になるということは決してありません。もしマルクス主義が政治的に憎悪を動員する意志を持たず無気力に理論的な闘争だけを行なうのなら、ファシズムはそれを軽蔑を持って取り扱うことでしょう。