風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

人殺しの酒2

「「廉潔の士」たる哲学者と「悪虐の人」たる哲学者とのこの対決は、プラトンにまで溯る。廉潔の士たる哲学者は思考することをみずからの存在の唯一の価値ある活動として誇りにする。哲学する悪虐の人は、思考に対し、最も烈しい情念の活動を助けるという以外の価値を認めない。ところでこの情熱なるものは、廉潔の士の眼からすれば、存在の欠如以外の何ものでもない。けれども、最大の悪虐が情熱を思考に擬装することに存するなら、悪虐の人は思考のうちに無力な情念の擬装以外の何ものも見ないのだ」(ピエール・クロソウスキー『わが隣人サド』)
「「あなたは死を恐れないのですか?」マリアが修道士に訊いた。修道士は応えた。「私は埒もない考えをいだくことはない。私は必然には頭をさげる。しかしその面前で土下座することはない。しかし、もし私が多くの者とともに焼かれるときには無感覚であるよりむしろ熱さを感じたい」「それほどの勇気を以って神を讃えるのは」マリアが言った「とても素晴らしいことだわ」」(A・E・コッパード『シオンへの行進』)
「すべての大きな運動、戦争その他は、人間に自己犠牲を強いる。このようにして絶えずその減少させるのが強者なのである………これに反して、自己をいたわる、自己を保存する、自己を相互的に保とうという恐るべき本能を持つのが弱者である………」(ニーチェ『遺稿 1888年春 14[五])
「われわれの社会学なるものは、群畜すなわち統計されたゼロたちの本能より以外の本能をぜんぜん知らない……。各々のゼロが「平等の権利」を持つところ、ゼロであることが美徳であるところ……こんにち群畜存在性のさまざまな形式が価値判断されるその価値づけは平和に戦争よりも高い価値を与える価値づけとぜんぜん同一である。しかしこの判断は反生物学的であり、それ自体デカダンスの産んだ奇形児である……。(…)生は戦争の結果であり、社会そのものが戦争への手段である。」(同上『14[四〇]』
「奇妙にひびくかもしれないが、われわれはつねに強者を弱者に対して武装させるべきなのである。幸運なものを幸運をつかめなかった者に対し、健康なものを堕落したもの悪質な遺伝を持った者に対して護るべきなのである。現実を道徳に翻案しようとするなら、道徳はこういうことになるだろう。すなわち中ぐらいの者は例外者よりも価値があり、デカダンの徒は中ぐらいの者よりもさらに価値があり、無への意志は生の意志より優位につく―――そして総体的な目標は、ここでキリスト教的、仏教的、ショーペンハウアー的に表現すれば―――存在するより存在せざるがまし、ということになる」(同上『14[一二三]』)