風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ヘイトスピーチはなぜピヨピヨ鳴いているだけに過ぎないか

―――聖書の冒頭にある有名な物語が真に理解されたであろうか―――科学に対する神の大恐慌についてのあの物語が?………理解されてはいなかった。すぐれて僧侶のものであるこの書物は、当然のことながら、僧侶の大きな内面的困難で始まっている。僧侶にはたった一つの大きな危険があるだけであり、したがって「神」にもたった一つの大きな困難があるだけである。―――まったくの精神、まったくの大司祭、まったくの完全性である老いたる神が、その国を遊歩するが、ただ退屈をどうにもすることもできない。退屈と戦ってみても神々すら無益なのである。そこでこの神は何をしでかしすか?彼は人間を発明する。―――人間は慰み者になるのである。しかるに見よ、人間もまた退屈する。すべての楽園それ自体が持っているこの唯一の困惑に対する神々の憐憫は、際限を知らない。そこで神々はすぐさまさらに他の動物どもを創造した。これが神の第一の失敗である。人間はそれらの動物で楽しむことがなかったからである。―――人間は動物どもを支配して、断じて「動物」であろうとはしなかったのである。―――その結果神の創造したのが女である。そして事実、退屈はこれで終わったが、―――しかし他のこともまた終わってしまった!女は神の第二の失敗であったのである。―――「女はその本質からして蛇であり、イヴである」―――これはいずれの僧侶も知っている。「したがって女よりしてあらゆる禍いがこの世に生ずる」―――これも同じくいずれの僧侶も知っている。「したがって女よりして科学もまた生ずる」………女によってはじめて人間は認識の木の実を味わうことを学んだ。―――何がおこったか?大恐慌が老いたる神を襲ったのである。人間自身が神の最大の失敗となり、神はおのれの敵手を創造してしまったしまったのである。科学が神と等しいものたらしめる。―――人間が科学的となれば僧侶達も神々もおしまいである!―――道徳として言えば、科学は禁ぜられたもの自体ということになる。―――科学のみが禁ぜられている。科学は最初の罪、すべての罪の萌芽、罪である。このことのみが道徳である。―――「汝認識することなかれ」―――その他のことはこの結果として生ずる―――神の大恐慌は、神が賢明であることをさまたげはしなかった。科学に対してどう身を守ればいいのか?これが長い間神の主要な問題となった。答え、すなわち人間を楽園から追放せよ!幸福、閑暇は思想をみちびくものであり、―――すべての思想が劣悪な思想である。…人間は思考してはならない。―――そして「僧侶自体」が困惑を、死を、懐妊の致命的危険を、あらゆる種族の悲惨、老朽、労苦を、なによりも病気を捏造した、―――ことごとく科学との闘争における手段ばかり!困惑は、思考することを人間に許さない………だがそれにもかかわらず!怖るべし!認識の事業は、天に逆巻き、神々の黄昏を告げるべく、高々とそびえる、―――どうしたらよいのか?―――老いたる神は戦争を捏造し、諸民族を離間せしめ、人間が互いに絶滅しあうようにする。(僧侶はつねに戦争を必要としてきた…)戦争こそ―――なかんずく科学の大妨害者である!―――信ぜられないことだ!認識は、僧侶からの解放は戦争があるにもかかわらず増大する。そして最後には老いたる神はこう決意するにいたる。すなわち、「人間は科学的になった。―――手のほどこしようがない人間を溺死させなければならない!」………(ニーチェ『反キリスト者 48』)