風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

永井均『倫理とは何か』2

(…)ルソー的な問題構成では「差別的な社会と差別のない社会ではどちらが正しいあり方をしているか」ということが問題の全てになってしまう。このとき、こう問うことはできないんだ―――「もちろん正しいのは差別のない社会だ。さてしかし、なぜ私は差別的であってはならないのか」ルソーの世界とは、まともな人間がこう問うことはありえない社会なのだ。実際、この問いがありえない無意味な問いだと感じるルソー的な人間は現に存在すると思うよ。(…)ルソーでは、そしてもちろんカントでも、そういう問いはもう不可能な問いになっている。この断絶はすごく大きい。

(…)カントは、意志の善の基準は「普遍法則となることを意志することができるかどうか」ということだけでいいんだ、という話のとき、こんなことを付け加えている。「もし意志できないのなら、その行為原則は忌避されるべきなのだが、それはその行為原則から君にあるいはまた他人に不利益が生じるからではなく、その行為原則が普遍的立法に適しえていないからである」。これもさっきと同じなんだ。「他人に不利益が生じるからではない」というのは功利主義批判。これは道徳に従おうとしているけど正しい倫理学を知らない人に対して言うべきことだ。「他人に不利益が生じるから」というのはその行為原則を忌避するためのじゅうぶんに道徳的な理由になりそうに思えるからね。これはいわば道徳派の内部論争。これに対して「君に不利益が生じるからではない」というのはそうではない。「私に不利益が生じるから」というのは、その行為原則を忌避するための道徳的な理由にはならないんだ。自らに不利なことをやるまいと思う人は、意志が善であるための基準を求めた結果まちがってそうするんじゃない。初めからそんなものを求めてはいない。これは、そもそもはじめから道徳に従おうとなんかしていない人の立場なんだ。だけど、カントはその区別ができない。