風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ニーチェの陰謀2

ところで道徳は、ある種の人々や階層が絶望へと陥り、無へと跳び込むのを防ぐことで生を守ってきたのだ。その人々や階層というのは、人間たちによって虐げられ、押さえつけられてきた人々や階層である。というのも、人生に対して絶望的な苛立ちを感じるのは人間達に対する無力感によってであって、自然に対するそれによってではないからだ。道徳は暴力の保持者たちを、暴力を振るう人々、およそ「支配者たち」を敵として扱ってきた。彼らに対して普通の卑しい人間を守るためである。つまり、まずは卑しい人間達を勇気づけ、元気づけねばならないのだ。したがって道徳は、支配者達の根本性格であるもの、つまり彼らの力への意志を最も憎むこと、最も深く侮蔑することを教えたのだ。こうした道徳を撤廃し、否定し解体するというのは、これまで最も憎まれていた衝動を、正反対の感情と価値評価で満たすことであろう。悩み苦しむ者、押さえつけられている者たちが、自分たちには力への意志を侮蔑する権利があるという信仰を失うならば、彼らはいっさいの希望を失った絶望の段階に達するだろう。そうなるのは、こうした根本性格が生の本質をなす場合であり、また、この彼らの「力への意志」も、支配者達の「力への意志」が覆面しただけのものであり、彼らの憎しみや侮蔑もやはり権力意志であることが明らかになる場合である。そうなると、押さえつけられている者たちも、自分たちが、押さえつけている者たちと同じ基盤に立っており、自分達にはなんら特権があるわけでもなければ、彼らより高い格付けを持っているものでもないことを認識するだろう。(ニーチェ『遺稿,1886年夏‐1887年秋,5[71])

ニヒリズム。その徴候は、出来の悪い連中が慰めを見出す場がなくなったことであり、彼らが、やがては自分が破壊されるために破壊を行うことであり、道徳から切り離されてしまったために「卑下する」根拠を失ったことであり―――彼らが正反対の原理を基盤とするようになり、強者が自分達の死刑執行人となるように強要することを通じて、自分達も力を求めることである。これは仏教のヨーロッパ的形態である。つまりいっさいの生存がその「意味」を失ったあとの否定の行為である。(同上)

(…)このようにして消費された金銭は、したがって次のことを意味する。排他的な情欲=飢饉=絶滅=ファンタスムの至高の価値。言い換えれば、この金銭が何千の人の糧をあらわせばあらわすほど、それだけ金銭は脱所有化された身体の価値を確かなものにし、それだけこの身体そのものが、何千もの人間の生の価値をあらわすようになるつまりひとつのファンタスム=地域の人口全体。もし金銭の流用がなかったならば、もし貧困によってあらわされる重石がなかったならば、、この価値評価は、ただちに空虚の中に崩れ落ちるだろう。(ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』)