風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ニーチェの陰謀

英雄に関して言うなら、私は彼らのことをそれほどよいと思っているわけではない。たとえそうだとしてもほかに選択の余地がなければ、英雄は最も受け入れられる生存形式である。(ニーチェ『遺稿,1882年11月‐1883年2月』)

(…)ヘーゲルおよびマルクス主義の弁証法は、科学がわれわれのあらゆる懸念を一掃してくれると前提している。なぜその経験を全うさせる前に自身は消滅するかを個人が知りたがることを、この弁証法は忘れている。かくして科学は、芸術が表象する死のイメージを、決して避けることができない。(…)そしてヘーゲルに対するキルケゴールの深甚なる批判はバランによれば、諸命題の弁証法は、悲嘆に応答してそれを癒す代わりに、それを説明するにすぎないという批判である。(ピエール・クロソウスキー『かくも不吉な欲望』)

7[21]私の要求―――「人間」という種族全体をこえて高められている存在を産み出すこと。そしてこの目標のために自己と隣人を犠牲にすること。従来の道徳は、種族の内部にその限界を持っていた。従来の道徳のすべては、まず第一に種族に無条件的な支柱を与えるために有効であった。これが達成されたならば、目標はより高くかかげられうる。ひとつの運動が絶対に生じる。人間の水平化、大きな蟻塚、等々。(…)いまひとつの運動。―――私の運動は―――その反対に、対立、分裂の先鋭化、平等の排除、超=強力者の創造である。前の運動はおしまいの人間を生産する。私の運動は超人を生産する。その目標は断じて後者を前者の支配者として理解することではない。そうではなくて―――二種類のものが並立して存在しなくてはならない―――出来るだけはなれて。片方の者達は、エピクロスの神々のように、もう片方の者たちにわずらわされることなく。(ニーチェ『遺稿,1882年11月‐1883年2月』)

7[240]第一の事実。社会は殺し、拷問し、自由や財産を奪う。教育という限定化を通じて、学校を通じて、力を行使する。嘘をつき、欺き、罠にかける(警察として)―――これらすべては、つまりそれ自体としては、悪いとは見なされ得ない。―――社会はその保存と促進を欲する。それは聖なる目的ではない。社会はこのために、ほかの社会と戦う。―――したがって利益のために、これらすべてが生じている。だがなんたることだ!まさにこれらの行動が、特別の尊敬とうやうやしさをもって、みられなければならないのである。「正義」、道徳性、善の保存、奨励として。多数者の利益を少数者の利益の上におくことは、個人が社会全体よりも大きな価値を持ちないという前提がある場合にのみ、意味がある。しかし最初からこの点では、そのような個人はまったく発生させないという意図がある。人間の像はすでに存在しており、それは共通の利益の維持という尺度からみたものである。社会が前提としなければならないのは、社会が最高のタイプの「人間」を代表し、社会に敵対する一切のものを、それ自体敵対的なものとして戦う権利を、そこからひき出すことである。―――この信念自体がなければ社会はいかなる意味においても「非道徳的」である。しかしこの信念においてはじめて、社会は何が道徳的であるべきかを決定する―――こうしてそれは意味を持つ!(ニーチェ『遺稿,1883年春‐夏』)