風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

関係ない3

もし哲学も面白いから価値を持つのだとすれば、どうなるのだろう。別にそれが正しくてもかまわない。正しい方が面白いなら正しくてもかまわない。この面白ければいいという価値判断は、社会問題や階級闘争にどう関係するのか。たとえば人間を虐殺したり絶滅させたたりするのも面白いから良いのだろうか。その通りであると答えよう。永井均の言うとおりそれ自体は何の問題もない。もちろん社会的な限度をこえれば人びとの道徳的判断で不快になったりして不利益になるので、それはゲームで行われたり、禁止されたり、やってはいけないことになるだろうが。もちろんこの趣味に対して軽蔑すること自体は特に問題ない。これが悪いということも道徳的趣味に基づいて不快だから嫌だというのも問題ない。また虐殺や差別に反対するというのも、そういうことをするのが良いからするのであって、別に正しいからではない。いや正しくてもいいのだが、それが正しいだけでは人は動かない。もしそれが正しいだけで人が動くのなら、差別に反対することなどまったく必要ないだろう。経済についても同じことが言える。経済で利益があがるから良いというのも一つの道徳的価値判断であってそのほうが面白いからだということになる。もちろんここで経済が正しいということは経済的利益と何の関係もないということは言っておくべきだが。経済的な価値判断を拒否することが、経済の利益になることもありえる。弁証法的発展も、それが面白いからやっている。そもそも弁証法的に考えることがただちに正しいということなどは帰結しない。いや逆か、弁証法的に考えるから、正しいのか。よって弁証法にはそもそも反論できないことになる。それが良いということになるかどうかはまったく別のことなのだが。もちろん革命も面白いからやってもかまわない。逆に革命が面白くないので反対するというのもかまわない。それによって日和見主義者扱いされるのも面白いならかまわないし、面白くないのならどちらかに参加するべきだろう。またある理念に基づいてどこまでも誠実に振舞うということも、面白いからやるのである。しかし誠実な人はそんなことはいわないで、「自分の利益のためさ」(これはアイロニーである)とか「人びとを助けるため」とか「そもそもそんなことに理由などない」とかいうかもしれない。あるいは自己言及的な言辞を弄して自分は誠実なんだと宣伝するかもしれない。まあ面白ければいいのだが。私は功利主義的記述を出したわけだが、別にこれは心理学的な記述ではないから別にいい。いやこれが心理学的記述だとしても面白ければいいのだろうか。学問的面白さを気にする人から見れば、これは面白くないとか言うかもしれない。別にそれでもいいのだが。ジャーナリストの仕事になるだろう。面白ければいいのだ。もちろんこの面白ければいいのだというのは、趣味は何でもいいというわけでは全然ない。面白くないものは面白くないし、面白いものは面白い。