風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

不正な富の友としてのキャラクターカード(WIXOSS考察)

「運命においてのみ読み取ることのできるような、貨幣の特定の構造があるのではないだろうか。また貨幣においてのみ読み取ることができるような、運命の特定の構造があるのではないだろうか」(ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論Ⅲ [O3,6]』
「賭事とは、天使の大群が奏でる音楽に対する地獄の対応物である。」(同上『[O10,6]』)
カードゲームで物語を作るときの弱点となるのが、カード自体は流通する大量生産品でなくてはならないということと、記号人格の表現としてのカードのキャラクター、あるいはデッキの希少性が両立しないことにある。人格の価値の表現として決闘(デュエル)がマンネリ化しないためには、絶えず新しいカードを違うテキスト記述として販売しなければならず、そうするとルールが複雑化し、誰でも参加できる記号人格の表現としての価値を失ってしまう。そもそもカードにおいて決闘は賞金と結びついていたのであり、勝利は貨幣としての交換可能性を表現していたのである。それが(キャラクター)カードと貨幣の関係が転倒することで、カードのキャラクターが自身の人格の可能性の価値を媒介する貨幣として機能することになったのだ。出発点はパックを開けるときの何が出るかというわくわく感である。金銭としての貨幣を賭博者のようなやり方で自身の人格を表現してくれるようなキャラクターを待ち受ける。このキャラクターとの出会いは運命であり、まさにそれしかなかったという感覚で金銭との交換を果たす。重要なのは自身が人格記号として流通するためにカードの形態を借り受けるということである。カードという形式は肉体としての身体の代わりに実体を維持する役割を持つ。キャラクターは使用されなくては価値を持たず、イラストがなければ自身の存在をアピールできず、テキストとしての記述なくして使用することができない。正確に言えば、キャラクターを想像的なものとして実体化するためにはあと「声」が必要なのだが、「声」を導入するためには電子空間でカードの形式をとる必要があるのであり、現実においては「精神病」の幻聴においてしか聞こえない。ここでひとつ疑問がわいてくるかもしれない。それはわざわざ大量生産品としてのカードをパックで運試しに購入するより、直接そのキャラクターカード自体を購入した方がいいではないかという疑問である。このような疑問がでてくるのは、パックででてきたカードが自身の記号人格の価値を充分に表現できてないのではないかという不満からである。問題なのは、直接キャラクターを金銭で購入することは、運命的な出会いを単なる大量生産品としての記述に置き換えてしまうことになってしまうということである。キャラクターとの出会いは運命の愛において生じるのではなく、娼婦を買うということに置き換えられてしまう。我々は店で値札を張られて、ケースの中にしまわれているカードたちを見ないだろうか。