風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ラカン的観点から視た資本主義4

以上語ってきたことのすべてが理解されるという形式において商品化しているということがソーシャルゲームの新しさだと前に私は書いた。まさに使用価値を産みだす理解不可能性の構造そのものを無料の価値として商品化すること。もはやいかなる理解不可能性によってもそれが理解不可能であるが故に商品化されることになってしまった。これがいかに決定的な事態かということはいくら強調してもしきれない。マルクス主義がこれで(あるいはやっと)完全に思い出になってしまうぐらい決定的である。ところでもうひとつ私はゲーム内貨幣がG-W-G`の形式になっていると書いたが、これはマルクスの完全な誤解であると同時に生産的な誤解である。というのは私がこれをG-W-G`と書いている視点が現実の貨幣を基準として理解されているのではなく、ゲーム内の貨幣を基準として書かれているからである。つまり本質的に私はゲーム内貨幣が現実の通貨と換金可能であるという前提で理解しているということだ。これがゲーム内で「禁止」されていることは注目に値することであろう。禁止されているということはそれが暗黙のうちに行なわれているということのなのだから。もしこのことが暗黙のうちにではなく可能であるのなら、間違いなく現実の経済形態は大きく変化することだろう。原理的には誰もが自分自身の想像力のみで自分の貨幣を生産することができるのだから。それこそがG-G`ということだ。そこで残る問題であるキャラクター貨幣においてはクロソウスキーの「生きた貨幣」の構想を説明することでそれとの比較をしていこう。「生きた貨幣」とは今まで書いてきた理解不可能性が言語化されることの必然性を直接人間の身体を交換することで解決しようとする試みにほかならない。このとき前提となっているのは誰もが持っている無償の価値である自身の身体と情欲(生殖行為やシミュラークルの製造の可能性を含む)を理解不可能の形式のままで交換することにある。このためには自身の情欲の形式―――これは自分の使用価値をあらわす人格―――を自分の身体において実現する倒錯の形態を必要としている。これが私の言う人を殺すことは不可能であるという人間に値する。この交換の可能性は交換される人間を飼育するのに必要な生活の糧とその人間をどう使用するのかわからないという二つの反論にさらされている。その人間が理解されるのなら貨幣や言葉による媒介が必要であり、必然的に飼育されることなどに誰も同意しないだろう。もし理解されないまま交換が可能なら、いったい何によって、それを使用するための価値を知るのか分からないことになるだろう。