風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ラカン的観点から視た資本主義3

人を殺すことが不可能な人間はどのようにして価値を与えることができるのか。というのも人を殺すことの不可能な人間は理解されることが不可能であり、人格の所有を認めず、ゆえに使用価値もありはしないからである。この点に関してはラカンの愛の定義「もっていないものを与えることだ」を考えることで答えていきたいと思う。まず最初に疑問のなのは誰が持っていないのかということである。普通に考えればそれは持っている人が持っていないに人に与えることではないだろうか。ところでこれに対するジジェクの注釈は「それを嫌がっている相手に」なのである。どうしてなのだろうか。もし持っているものを持っていないものに与えることが問題ならば、それは慈善であろう。しかしだからこそそれは愛の名を必要とするのではないか。というのもただ与えるだけでは相手に借しを作ってしまう事になるからである。この考えは権利については当てはまるかもしれないが、ジジェクの注釈に充分に答えているとは言いがたい。おそらく最初から慈悲を受けることには何か耐えられないものがあるのだ。もし受け取るだけでそれを返すことができないのなら、そのことは人を与えた人に隷属させてしまうことになるだろう。なぜなら奴隷であるとは使用価値にあるのであり、無条件に使用価値があるものを受け取ることは自身の使用価値を貶めるものになるからである。前に書いたことを思い出して欲しい。使用価値によって人格が立派になっている存在に対してさらなる使用価値を与えることは、その人格以上の価値を存在に対して与えることであり、その与えたものが自身より価値が高いということを認めることになってしまう。この記述から見てわかるとおり、理解不可能な存在は逆に使用価値などないので、いくらでも受け取ることが可能であり、与えるものを食いつくしてしまう―――ただしこのことが当てはまるのは与えられた使用価値以上の理解不可能性を持っている場合だけである。だがそうすると、もし仮にこんなことができるのならだが、自分自身すら持っていないものを与えることの方がより理解不可能で、理解可能な相手に対して使用価値が高くなるのではないだろうか。例えば水を持っていない者に対して水を与えることは、それを水の使用価値で考えるのではなく、水を与えた者の「やさしさ」とか「親切」に対して恩を返すのではないだろうか。逆に言うと取引である者が得をし、自分も得をするような状況で何かを与えられたところで恩を返そうという気になるだろか。それはどちらも得をしたのだから良いではないかということにならないだろうか。つまりその行動が受け取るものの目に対して理解不可能であればあるほど、与えるものの価値は高くなり、より隷属をさせやすくなる。これでラカンの愛の定義「もっていないものを与えることだ」という言葉に「誰にとって」が欠けていることが重要であるということがわかったのではないだろうか。こう考えれば「何を持っていないのか?」という質問は的外れであることが分かるだろう。