風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ラカン的観点から視た資本主義5

このアポリアを見事に解決するのがコンピュータだということに疑問を持つ者などいようか?コンピュータはそれが飼育ではなく使用されることによって価値を得、それが理解されないことによって交換のための道具となる。誰もが一家に一台ずつ好きな人間を所有しておくことなど誰も考えないのに、コンピュータはそれを実現している。しかも定義から言ってコンピュータは理解できないまま使用できる対象である。そしてコンピュータが人を殺すことが不可能だというのは自明すぎるように思える。たとえコンピュータが人間を殺すように誘導するようになってもだ。もしコンピュータが完全に無料化され誰にも解放されている使用価値となるのなら、まさしく「生きた貨幣」と呼ぶのにふさわしい対象になったことだろう。もしコンピュータが生きた対象に見えないのならそう見せかけるようなロボットを開発すればいい。我々の文化はそういうキャラクターを大量に生産してこなかっただろうか?心とか魂とかは何度もいうように見せかけ合いによって存在するものなのだから。だがなかなかどうして人間そんなに愚かではなかった。つまりコンピュータの使用価値を独占する人間たちが現れた。どこまでも欲深い人間はコンピュータを万人の「生きた貨幣」になどしようとは断じて欲さなかったのだ。問題はいったいコンピュータよりも価値の高い人間とはいったい何なのかということである。メディア人間では何の答えにもなっていない。それは確かに一つの解決法であるかもしれないが、それが一家に一台ずつ送られるような理想的なロボットに勝てるとは到底思えない。ロボットに生殖機能がないことが何の問題があろう。セックスだけでエロティシズムを満足させるのは古すぎるし、人工授精や体外受精だってあるではないか。「実際の人間的な感情」はそれ自体メディアがそのつど決定するのだからロボットはそのすべてを原理的に模倣可能である。愛は確かに個別的には残るかもしれないが、愛を原理的な価値に据えたいと思うのなら愛をどのように交換可能にするのかということが問題になる。性的関係がコンピュータなしにコンピュータを凌駕する価値になることがどうしてできるのか。そうすると人間的機能をことごとく排除した「人間それ自体」だけがコンピュータに対抗できる唯一の使用価値ということになるのでないだろうか。なぜならロボットには決してムーゼルマンのように過剰に空虚であることはできないからである。こうして人間身体の直接交換である「生きた貨幣」構想は完全に失敗するのである。ムーゼルマンだけが貨幣によって媒介されることなく交換できる対象だという事実にどんな希望もない。残る可能性は人間がコンピュータにとってどれだけ高い使用価値となることができるかということだけである。これこそ人間に対するコンピュータの勝利であり、資本主義の終焉であることだろう。人間それ自体にはもういかなる価値もなくなったのだから。キットラーの言うとおり「ついに人間と言うものは、人間の知性から離れて機能する道具を作り出したということです。それを永遠の生命と呼ぶこともできるでしょう。」というわけだ。だがそうするとコンピュータにおける人間の使用価値と人間が価値を得るためのコンピュータの使用とが区別がつかなくなる地点があるような気がするのだが。それはいったいどこなのか。ここで私が言いたいのはコンピュータをプログラミングすることではなく、コンピュータが人間を使用する上で前提としなければならないような人間の能力のことである。もちろんそれは人間がコンピュータを手段として扱うことができるということではなく、コンピュータの世界観を前提としたコンピュータを使用しない価値を持つことができるのではないかということだ。