風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

ラカン的観点から視た資本主義2

では結局のところ人を殺すことが不可能な人間は存在するのか、それはあくまで理想的な典型なのかという問いを繰り返そう。これはまったく答えられていないように思われるからである。人を殺すことができない人間は理解できないのではないか、つまり言語ゲームの記述にどこまでも外れ続ける人間ではないかと問うこともできただろう。正直に白状すれば、私が記述しているのはその線の議論だからである。理解するとは手段として利用することなのだから、理解されないということは他のテクストとして記述されるような存在を手段として扱うことができる。ここで飛躍をしてみよう。テクスト(織物)とは時間的構成体なのだから、それは定義から言っても何らかのものとして使用され続けるのでなくてはならず、まさにそれゆえに使用価値を持つものとして理解できる。そして使用価値を持つものは価値を伴って交換することができるのであり、かくして商品ができあがる。理解できるとは商品化することの可能性であると考えてみよう。このことは転倒することで使用の可能性を貨幣として価値を交換することができるということにつながる。使用の可能性が貨幣と交換できるとは、理解不可能な美や人を殺すことの不可能な人間のような怪物性への可能性として生産された価値を交換することの役割を貨幣が持っているということである。逆にいうなら、理解可能で使用可能な存在はそれが貨幣として交換される場合だけ価値として理解されるということである。つまりあなたの人格はあなたの労働によって得られた生産物の需要によって払われる給料によって保証されているということである。よく言われているようにこの「公平な」形式においてこそ搾取―――つまり人格を生産物の使用価値としてのみ視ること―――がある。人格が立派であればあるほどその価値は使用価値によって制約されていくのである。この立派さというものこそ、労働の道徳的言説が保証している当のものであり、だからこそ私はあくまで政治経済学批判だけではなく道徳批判こそが経済形態を変えるために必要だと主張する理由なのだ。政治経済学批判だけをする人間はその目指している理想が使用価値によって抑圧されているのではなく、生産されているということを認めないからである。ここまでくればなぜ人を殺すことが不可能な人間が所有権を「盗んでもよい権利を与える意志」だというのかが見えてくる。彼が認めないのは人格の所有であり、「公平な」交換の可能性だからである。よって人を殺すことが不可能な存在は、理想的な典型ではないが存在しないということがはっきりした。