風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

人殺しの酒4

「左翼の諸派、ことにマルクシズムの誤りは「爆発的な衝迫の排他的な目的、単に必然的目的とさえするところが、一社会の頭部と単一構造との破壊である」と信ずる点にあったのだ」(ピエール・クロソウスキー『わが隣人サド』)
「(…)最後に、凡俗の人間に対しては、つまり奉仕と一般的効用のために存在し、またその限りでのみ存在することをゆるされる大衆にたいしては、宗教は彼らの境遇や素性にこのうえなく満足できる気持ちを与えてやる。(…)信心によって、見かけは事物の高い秩序をとおもわれるもののなかに入れるように、微賎の者たちを教えこみ、これによって彼らが実に惨めに生活している現実の秩序(―――この惨めさこそ必要なのだ!―――)に満足の思いを抱かせるようにする技術、この技術ほどに尊重すべきものは、キリスト教においても仏教においてもおそらくないであろう。」(ニーチェ『善悪の彼岸』)
結論。生の実践においては、忍耐、善意、相互の扶助においては、平民は彼ら(哲学者―――引用者追記)にまさっている。これはほとんどドストエフスキートルストイがロシア農民のためにくだそうとする判断と同じである。農民たちは実践においてはより哲学的である。彼らは窮境を切りぬけるのに、より勇気のある態度をとる……」(ニーチェ『遺稿 1888年春 14[一二九]』
「撮影カメラの歴史はかくして自動武器の歴史と重なり合うことになる。映像を順次送ることは、弾薬筒を順次送ることの模倣にすぎない。空間の中で動く対象、たとえば人間に照準を合わせて、それで動かないように固定してしまうのには、二つの方法がある。すなわち銃で撃つことと、映像にとること、映画の原理のなかには、19世紀によって発明された、すなわち機械化された死というものが巣くっている。しかもそれはいわゆる敵の死ではなく、次々と目の前にあらわれる、人間とはみなされない存在達の死なのだ。機械化された死は、計時写真銃によって完璧なものになる。死を与えるそのコマ送りの仕掛けが、記憶と融合したからである。機関銃が死滅させたものを、カメラは不死のものにする。(…)映画とは、弾が命中しているときに、あるいは命中する以前からもうすでに、死の国を無際限に拡張することなのだ。」(フリードリヒ・キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』)
「戦争というものが(…)ますますシュミレーション可能になっていったことは、よく知られた事実であろう。だが同じこれらの参謀本部がまことに正確に認識していたように、「そうなっても究極の問い〔生死の問い〕はいつまでも疑問のままで残る。シュミレーションにあたって、敵と死を〈充分リアルに組み込む〉ことがどうしてもできないからである。」このことからフリートレンダーは、いつものごとくメディア技術を引き合いに出して、まったく正反対の大胆な結論を出している。戦死それ自体が、映画と一致するときには抹殺されてしまうのだ、と。」(同上)
「「つまり私にとっての究極魔法は」と。手袋鵬喜は、ほっとしながら言った。「種を滅ぼす魔法―――です」」(西尾維新『非業伝』)