風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

「魔法(無知)は力なり」4

「(…)―――だから、人は哲学する際、ついにはいまだ不分明な音声だけを発したくなるような段階へと到達する。―――しかし、そのような音声は、一定の言語ゲームの中にあってのみ、一つの表現になっているのである。いまや、その言語ゲームが記述されなくてはならない。」(ウィトゲンシュタイン哲学探究 261』)
「(…)メディア技術上の生産条件を性格に描写するという点にかけては、娯楽小説(…)に勝るものはない。ここでもグラモフォンというメディアが抒情詩を産み、それが暗誦されることによって内面化され、したがって書かれたテクストであるという事実などすっ飛ばして、ただちに映画というメディアに行き着いてしまう。(…)ベンが娯楽小説に挑戦するような詩を書こうが、いっこうに変わることがない。グラモフォンと映画館こそが我々にとっての現実であり、それらはもはや文明批評家には手の届かないものになってしまっているという事実を、ベンの詩句はただ書きとめることができるだけであり、それをいまさら真実であると認定することなどはもう何の意味もない。そうでなければ、ベンのこれらの詩句は、作者の名前は知られないままで、その中で言及されている流行歌と同じようにたちまち人気が出、そしてあっという間に忘れ去られてしまうことだろう。」(フリードリヒ・キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』)
「男がどんなふうに女とベットにはいるかということをテーマにした映画が今日ではますます少なくなっている―――そんな叫びが天に上るまでになっているが、愛だってメディアの一つに過ぎない。―――本やルーマン白鳥の歌にとってはおあつらえ向きの。でも映画はますますもって電話からマイクロプロセッサにいたるまで、ほかのメディアの使用説明書になってきている。」(フリードリヒ・キットラーキットラー対話 ルフトブリュッケ広場』)
「(…)僕たちはこうした問題についてひどく喧嘩したんだ。彼女の基本的な考えというのは、すべてのマシンは誤用されるためにのみ存在しているというもので、それを疑ってみようともしないんだ。誤用こそサラリーマンや労働者の創造性なんだ。それは絶対にそうであって、コンピューターにもあてはまるんだっていうんだよ。僕としてはそれに対して疑問に思っているし、腹が痛くなったりもするよ。コンピュータはそれ自体論理的に完結しているので、誤用さえもプログラミングになってしまうのにね。どんなハッカーだってコンピュータを誤用しようとすれば、産業界が組み込んでいる途方もなくたくさんの障害物を決まったノウハウやシステムによって克服しなければならないってことを身をもって示しているよね。ただ腕まくりをして、取りかかればすむってわけではない。それにたとえばコンピュータを空に放り投げたら何かすてきなことが起こるんじゃないか、なんて希望を持つわけにはいかないんだ。何も起こりはしないんだ。それじゃ破壊にすぎないんだよ。結局有効なのはコンピュータをプログラミングすること以外の何事でもないので、そうすると自動的に機械が組み立てられたのと同一のレベルに立つことになってしまうのさ。こんなわけだから、誤用という概念の方が理解し難いんだ。それに大抵のハッカーは25歳でコンピュータ業界に雇われてしまうほどに優秀なプログラマーだからね。[正当な使用から誤用への]移行はこんな具合にとても流動的なんだよ。」
(同上)