風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

「魔法(無知)は力なり」

「(…)個人の理論が実際にその時代を超え出るとすれば、そして彼が一つのあるべき世界をしつらえるとすれば、このあるべき世界はなるほど存在しているけれども、単に彼が思うことのなかにしかない。つまりそれは、どんな好き勝手なことでも想像できる柔軟にして軟弱な境遇のうちにしか存在していない。」(ヘーゲル『法の哲学 序文』)
ヴァーチャルリアリティは言葉のあらゆる意味で理性的であり、現実的なのだが、このことの可能性はどのような現実的な帰結を伴うのか。これに答えるために最も良い方法は、文学にありとあらゆるロマン主義とファンタジーが勝利を収めているという事実を分析することである。なぜ現代にもなって「魔法」なのか?魔法とはいったいなんなのだろうか。わけのわからない呪文を唱えると、超自然的な対象を発生させること。等々。しかしこのようなものを我々は毎日見ているのではないだろうか。まさに今私の目の前にあるものがそうではないのか。コンピューターはデリダの言うとおり、「誰にでも簡単に利用できるが、どうなっているかは誰にもわからない」様な対象ではないのか。アルゴリズムやコンピューター言語を撃ち込むと、それにおうじたものが出てくるものではないのか。そもそも我々はなぜこうしたわけのわからないものを平気で使っても不安を感じないのだろうか。よくある日常のことを思い出そう。なにか電子機器の故障でうまくいかなくなったとき、誰もが「これどうなっているの!」といっていらいらした経験があるはずだ。そんなとき我々はどうするだろうか?知っている人に電話したり、検索したりする。だが何かおかしいのではないか。そういう人たちに問題を解決してもらっても、このわけのわからなさは決して解決されていないのではないか。つまり、誰かが知っているということを我々が知ったとき我々は「安心」するのである。コンピューターについて分からないことをコンピューターで検索して、答えがでるとでも言うのか。そのとおり。コンピューターはまさに「知っていると想定された主体」であり、しかも自身について知っている主体なのだ。