風鈴神社

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カードゲームの経済学とキャラクター貨幣 4

キャラクターの定義を正確にすることから始めよう。キャラクターとは「実践的な相互関係の内で現れる通訳不可能な享楽の仮面である」。この仮面という言葉はもう少し厳密にする必要がある。幻想のことか?それだと分裂的な「精神病者」がキャラクターを生み出す必然性がわからない。つまりキャラクターは象徴なのである。何に対する象徴か?ラカンと聞いてうんざりするもの、ファルスである。これ以外、貨幣の同一性に代わる同一性を求めることの意味があるものは何もない。だからファルスが交換されることに人格の解体があるのだ。ファルスとは「母の欲望のシニフィアン」である。ここからまったく論理的に現代の「恥ずかしい服装をした倒錯者」や「フェティシズム的倒錯」が出てくる。キャラクターとは「実践的な相互関係の内で現れる母の欲望のシニフィアン」という定義が正しいのなら、それは近親相姦の対象を交換することで、主体を確立しているということになるからだ。超自我と父の不在(あるいは父の過剰な存在)が闇人格で表現されるのもまったくうなずけるというものだ。逆に言うならキャラクターにとって近親相姦の対象を交換することがすなわち享楽である。だが我々はここから先に一歩進むことを学んでいる。もしもキャラクター的な主体が自身のことを近親相姦の対象として捉える、つまり道具としてとらえるのならどうなるのか?これは二重に倒錯している。まず近親相姦の不可能性。次に近親相姦の対象が存在するという不可能性。この二重の倒錯が、普通の近親相姦的な対象よりも「より多くの」交換価値を持つことは明らかだ。この対象はどのように存在するのか?貨幣の同一性が完全にキャラクターとして転倒し、キャラクター自身の享楽として、自身をキャラクター化する場合である。このキャラクターは享楽を必要としない、あるいは必要とするというわけではない。そのことだけが享楽を賭ける―――キャラクターという代理なしに―――という自身を純粋に貨幣的価値の立場に置く事を可能にするだろう。