風鈴神社

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カードゲームの経済学とキャラクター貨幣 3

最初から考え直してみよう。まずなぜキャラクターの交換が行われるのかから出発しなくてならない。それは繰り返しになるが、貨幣の同一性が自明なものではなくなり、人格の同一性を別のもので代理しようとするところからだ。そのようなキャラクターはなぜ交換されるのか。キャラクター自身の享楽によってである。つまりキャラクターは自身の価値を表現するために交換されなくてはならない。ここで少し戻って貨幣の同一性の二重性を記述しなくてはならない。なぜならキャラクターの意味とは、そのような同一性の交換関係に代わるものとして交換されなくてはならないからだ。人格とキャラクターの転倒はこのようにして起こる。というのは人格の享楽によってキャラクターは交換される以上、キャラクターが交換価値を一旦持つようになれば、人格の意味は失われるのだから。ではキャラクターは他のキャラクターに対して等価値なのか。もちろんそれはありえない。ではどのようにして交換価値の差異が他のキャラクターとの間に生まれるのか。より多くの享楽を与えることによってである。ただし「より多く」の意味に注意する必要がある。この「より多く」は享楽の交換不可能性の可能性なのだ。交換不可能なものは貨幣の同一性を破壊する。このようにしてキャラクターの欲望は首尾一貫したものになる。「遊戯王」ではこれはデュエルの勝利を意味しているが、通俗的には性関係を意味している。なぜなら、貨幣の同一性を破壊する基本的なものは恋愛だからである。「遊戯王」に恋愛関係がほとんど見られないのを考えて欲しい。そのために常にゲームが行われなければならないのだ。しかしキャラクターと性関係のつながりは決して自明なものではない。交換されるべきキャラクターが同姓であるというような法もなにもない。ニーチェは「男らしい女などこっちから逃げ出す、女らしい女など向こうから逃げ出す」と偶像の黄昏で言ってはいなかったか?クロソウスキーは単純に貨幣として男が与えられ、女が与えられるのは生活の糧が保証されることが前提だとしていた。だがそれだけでいいのだろうか?クロソウスキーの「生きた貨幣」の交換はどの程度キャラクターにあてはまるのか?