風鈴神社

自然の囁きを声として反復することでメロディーを生み出すブログ兼放射性廃棄物処理場。はじめての方は「☆☆☆」か「はじめての方向けの引用」のカテゴリーからどうぞ。

聖杯戦争のルール説明3

絶えず自身を改革し、思考における高次のステージを目指さなければならないという要請はどこからくるのか。そもそも高次のステージとはなんのことなのか。自分がなんとなく他人よりも上にいて満足を感じる状態のことなのか。ということは思考に対して感情が優位を占めているという感覚だろうか。絶え間ない緊張において突発的な行為を実行できること。かつては反対に感情を抑えることで理性が凱歌をあげてきた。安心感とはまさにその事にほかならない。安心感が崩されるには突発的な行為をするという身ぶりだけでも十分だが、その事をどのように説明したらよいだろうか。相手の安心感を確保させるようなルールを制定することでメリットを享受させ自分の行為の説明責任を引き受ける身ぶりを示すこと。『言語ゲーム』。それはすでに相手に恐怖を感じさているという意味で余計なものではないのか。ゲームを理解できるということはそれだけでルールが一方的に制定されていることを自覚させる。説明責任はゲームに公正さの形式を附与するための配慮でしかありえない。ルールの制定が可能なのは恐怖が安心感を越えない程度に限定されるが、これは説明の段階ですでに挫折している。この矛盾を解く鍵はゲームを受け入れるには安心感を感じている相手が理性的に考えればという前提にある。つまりルールを制定する方は、ルールに沿ったゲームを受け入れない相手を教育されていないと見るわけである。まずゲームのルール説明は幻想の形態で導入され、それが安心感にとって自明なものに成ったがゆえに制度化され教育の論理形式によって行われる。この場合、教育を受ける側は不公平を承知でゲームをするか不平を言い続けるかのどちらかしかない。ゲームから降りるためには別のゲームに参加するか新しいゲームを作りうると想定した場合にのみ可能だが、これはループする。したがってゲームに参加する側が勝つためには不公平なルールに「守られている」点を勇気をもって攻撃するしかない。ルールによって優位にある限り自分の立場を捨てるには二重の勇気が必要なのだからまずできない。ゲームのルールに守られながら不公平を批判する立場は不可能である。だからこそ道徳的正当化が絶えず口にされ、意識改革が要請されるのだ。